
1. 教会の中の賜物と職分
教会という共同体の中には、多様な人々が集まっています。性格も、賜物も、役割もそれぞれ異なり、信仰の段階や方向性も人によってさまざまです。それでも私たちが一つの教会を形成できるのは、すべてのクリスチャンに共通して与えられている神の恵み、すなわち聖霊の働きによって互いが一つにされるからです。使徒パウロはコリント人への第一の手紙(以下「第一コリント」)12章で、教会の中に多様な賜物と職分があることを明確に教えつつ、それらは究極的に同じ聖霊と同じ主にあって与えられたものであることを強調しています。
「賜物」に当たるギリシャ語「カリスマ(Charisma)」は、神の"恵み"を意味する「カリス(charis)」から派生した言葉です。つまり、賜物は人間が自力で身につけた才能や技量ではなく、神が教会を建て上げ、ご自分の国を拡張されるために特定の人に注いでくださる"贈り物"だという意味を含んでいます。その賜物は神の創造的な多様性の中で、それぞれの人に独自の形で与えられます。ある人は預言の賜物を、別の人は教えの賜物を、またある人は奉仕の賜物を受けて、教会の中で互いの足りない部分を補い合い、一つの体を築き上げていくのです。
張ダビデ牧師は、このような教会の多様性こそが神の驚くべき摂理であると、しばしば強調しています。信徒たちがそれぞれ異なる賜物を用いて教会に仕えるとき、教会は生活の現場で「有機的な体」として機能し得る、と彼は言います。もし教会が、ある特定の身体器官だけをずっと強調したり、あるいは特定の職分ばかりを過度に重視したりすると、教会全体という体が健康を保つことは難しくなるでしょう。私たちは皆、霊的には手になり得るし、足になり得るし、目や耳のような肢(はたら)き手にもなり得ます。パウロが「体は一つだが多くの肢体がある」と語ったことを思い起こすなら、互いの異なる賜物を認め、尊重し合うことで、教会という体全体が強く健全になることがよく分かります。
第一コリント12章28節には、
「神は教会の中にある人々を、それぞれ次のように立てられました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次いで奇跡を行う者、次いで病を癒す賜物や、人を助ける者、管理する者、いろいろな種類の異言を話す者などです」
と記されています。パウロは教会の柱となる職分を列挙しながら、それぞれに与えられた賜物や働きが分散しているように見えても、その根拠と根源は「唯一の主」であることを明確にしています。また、エペソ人への手紙4章11〜12節でも、
「彼はある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師と教師としてお立てになりました。それは聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストの体を建て上げるためです」
と宣言されています。ここでも、教会に与えられているすべての職分や賜物の目的は「奉仕の働きをさせ、キリストの体を建て上げること」であると繰り返し強調されています。結局、教会に存在する多様な職務と賜物は、すべて「奉仕」に帰結すると言えます。それは単なる献金奉仕や救済奉仕、行事奉仕など、目に見える活動だけを指すのではありません。霊的・精神的な仕え合い、み言葉によって互いを励まし起こす慰め、祈りと礼拝を通して神を崇めつつ互いを支えるといったことも、すべて奉仕の範疇に含まれます。
この点で、使徒の働きに登場する「執事(ディアコノス)」の役割は特に重要です。初代教会が急速に成長する中で、教会には救済や世話を必要とする人々の数が爆発的に増えました。しかし、使徒たちは御言葉の宣教と祈りに専念する責任があり、救済奉仕だけに専念するわけにはいかなかった。そこで教会は、救済奉仕を担当する働き手(執事)を別途立てることになりました。使徒の働き6章には、初代教会が七人の執事を選び、教会の務めを分担する場面が記されています。その代表的人物がステパノです。彼は単に奉仕のために選ばれた人でしたが、極めて高い霊的水準を備えていました。彼は「信仰と聖霊に満ちた者」と描写されており、最期には石打ちに遭って殉教するまで福音の真理を証ししました。彼は最初の殉教者となり、執事として福音の真理のために自らの命を捧げたのです。その姿を目撃していたサウロ(パウロ)は、その後ダマスコ途上で主の召しを受け、宣教の使徒へと劇的に変えられる体験をしました。つまり、執事ステパノの献身と殉教は、キリスト教史における非常に大きな転換点となったのです。
張ダビデ牧師は、このステパノの逸話を通して、教会で奉仕する者が単なる「後方支援」以上の、霊的前線の先頭に立つ存在となり得ることを力説します。世の中はお金や権力、誘惑に満ちた荒野のような場所であり、奉仕し仕える立場の人こそが、往々にして霊的戦いの真っ只中に立つことになるからです。結局、奉仕は気軽な作業などではなく、場合によっては奉仕者自身が物質的誘惑や名誉心に絡め取られて倒れる危険さえある、非常に厳しく危うい領域でもあります。だからこそ初代教会は、ディアコノス(執事)を立てる際に、むしろより厳格な基準を適用しました。より霊的に成熟し、み言葉と祈りに満たされ、世的な欲を遠ざけ、教会から託された財政や救済の務めを透明に担える人格者であることが求められたのです。つまり信仰が検証され、世の欲望に翻弄されにくい人を選んだわけです。それほどまでに奉仕は、教会の「後方」をしっかりと支える重要な柱の役割を担っています。
教会が教会らしく機能するためには、「礼拝する者、祈る者、教える者、奉仕する者」の四つがバランスよく配置される必要がある、と見ることができます。これはある種、"四本柱"のような構成要素です。礼拝する者は、牧師や礼拝音楽の働き手など、共同体が神に礼拝を捧げられるよう導き、仕える役割を担います。祈る者たちは、霊的な戦線をしっかりと支え、預言者的な使命を担う存在として、教会の霊的状態を見守り、霊的戦いにおいて勝利を収められるよう助けます。教える者は、教会を知的な面で武装させ、異端や世の誘惑に流されず真理を見分けられるよう助けます。そして最後に、奉仕する者は、教会が実際に動くための手足として物質的・肉体的領域を担い、愛と仕え合いの実践モデルとなるのです。
張ダビデ牧師が常に警告しているのは、教会の中の多様な職分と賜物が十分に発揮されるためには、それを可能にする信仰の基礎が堅固でなければならない、という点です。詩編の「基がこわれたら、正しい者は何ができよう」という問いのように、信仰の根が深くなければ、どんな賜物や職分を担っていても、誘惑の風が吹くときに簡単に崩れてしまいかねません。では、私たちの信仰の基礎を堅固にしてくれるものは何なのでしょうか。それはまさに「霊とまこと」による礼拝に始まり、み言葉を学び、祈りつつ聖霊の助けを求めることから出発します。霊とまことに満たされた人は、神に礼拝を捧げることが人生の最優先課題であることを忘れません。そのような人にとって、教会の中で担ういかなる働きや奉仕も、個人の名誉を高める手段ではなく、神が教会を建て、一人でも多くの魂を救おうとしておられる壮大な救いの御業の一部だと知っているのです。
ローマ人への手紙12章や第一コリント12章に言及されているさまざまな賜物や職分は、基本的に教会が大宣教命令(Great Commission)を実践する共同体となるよう備えさせる道具だと言えます。つまり、教会の内的な共同体性を築き上げつつ、そのエネルギーを土台に「地の果てにまで福音を伝えよ」(マタイの福音書28章19〜20節)というイエスの命令を実行すべきなのです。もし教会の内だけにとどまってしまう賜物や職分があるなら、その意味は半減します。そもそも教会は「エクレシア(Ecclesia)」、すなわち"世の中から呼び出された者たち"という意味を持っています。神の招きに応えて教会に集まった者たちは、再び世へと派遣されなければなりません。もし私たちが教会の中で互いを建て合い、世話をし合い、礼拝し祈るところで終わってしまうなら、聖書が語る本来の意味での教会、すなわち宣教的教会(ミッショナル・チャーチ)としての使命を果たしていないことになります。
このように、職分と賜物は教会共同体が「内的な成長(聖徒の完成)」と「外部への拡大(福音の伝播)」を同時に成し遂げるために与えられたものです。張ダビデ牧師の説教に繰り返し登場するメッセージは、たとえ教会がどれほど大きくなり、プログラムが多岐にわたっても、福音宣教と奉仕、そして真実な礼拝という本質がぼやけてしまうなら、それはすでに教会の土台が損なわれているという警告です。私たちが主の御前に立って評価されるその日、主は私たちの地位や目に見える成果だけを見られるのではありません。「私があなたに与えた賜物と職分を用いて、あなたは何をしたのか。その賜物を通して、どれほど忠実に私と私の国に仕えたのか」と問われることでしょう。その問いに正直に答えられるためには、今この瞬間から、自分に与えられた賜物を改めて見直し、それを奉仕の道具として用いているかを点検する必要があります。
教会の中の賜物と職分は、神がご自分の民に与えてくださった美しい贈り物であると同時に、重大な責任を共に担う道具でもあります。使徒や預言者、教師や牧師、そして執事など、いずれの職分も最終的にはこの地で神の国を具現し、拡張していくために用いられるべきものです。そこに立つすべての信徒は、それぞれの才能や情熱をもって教会に仕えつつ、決して一方に偏ったり他者を軽んじたりしてはなりません。皆がキリストの体の中で一つの肢体であることを思い起こし、へりくだって互いに仕えるとき、教会は真に「有機的な共同体」として立ち上がるのです。そうして築き上げられた教会が、主の地上での使命に向かって大胆に進むとき、この世は教会を通して神の愛と力を目の当たりにするでしょう。
2. 終末論的視点と大宣教命令
ペテロの手紙第二3章3〜13節は、終末に対する信仰、すなわち「神の時」がどのように到来するのかについての重要な教えを含んでいます。ここで使徒ペテロは、終わりの時代にあざける者たちが現れ、「主が来られるという約束はどこにあるのか。創造の時から今に至るまで、何の変化もなく続いているではないか」と嘲笑するだろう、と予告します。彼らは歴史をただ循環論的に捉え、過去も現在も変わらないのだから、未来もまた特別な変化なく続くのだ、と主張するのです。しかし聖書は決して歴史を循環論的に見ていません。むしろ歴史は神の綿密な計画と主権のもと、目指す目的地へ直線的に進んでいると語ります。その終着点こそが「新しい天と新しい地」であり、「主の日」に与えられる完成の時なのです。
ペテロはノアの時代を例に挙げ、当時の世界は水による裁きを受けたと述べます。人々はノアの「箱舟を準備せよ」という警告を嘲り、やがて突然の大洪水によって救いを得なかった者は滅びてしまいました。このように、神の裁きは人々の思惑や理解を超えて成就します。しかし神は憐れみ深い方なので、できるだけ多くの人間が悔い改めて救われるよう、長い忍耐をもって待っておられます。人間の視点では、その時が「遅い」と感じられるかもしれませんが、ペテロの手紙第二3章8節にあるように、「主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです」。すなわち、神が定めた時が来れば、その日は盗人のようにやって来るのです。「盗人のように」という表現は、予告なしに、不意に、人間の予想を超えた形で起こることを示しています。ですから信仰者は、いつ、どのように訪れるか分からない「神のその日」を緊張感をもって備えなければならないのです。
張ダビデ牧師は、ここでさらに重要な点を強調します。私たちに与えられた終末論的な希望は、決して漠然とした恐怖や虚無主義に流れ込むものではない、ということです。クリスチャンの終末論は、その結末が「滅亡」や「虚無」ではなく、「義の宿る新しい天と新しい地」という肯定的な完成にあるのです。これは決して現世を放棄し、ただ来世だけを待ち望む消極的な態度に終わるわけではありません。むしろ張ダビデ牧師は、私たちが「新しい天と新しい地」を待望するということは、今ここで「神の義」を追い求めて生きるべきだという、強い動機づけを与えるのだと説きます。ペテロの手紙第二3章11節で「このすべてが溶け去るのであれば、あなたがたはどのような人であるべきでしょうか」と問い、「聖なる行いと敬虔な様子で、神の日を待ち望みなさい」と勧めているのも同じ文脈です。最終的にクリスチャンの終末論は、私たちがこの地上で結ぶべき実と密接に結びついているのです。天が火で焼け崩れ、諸要素が熱に溶けるとしても、クリスチャンは揺るがない永遠の国を見据えつつ、現世を「聖く、敬虔に」歩むべきだということを忘れてはなりません。
この「終末論的視点」は、教会の本質と使命をより鮮明にします。教会はなぜこの地上に存在するのか。なぜ地の果てまで福音を伝えねばならないのか。なぜ弟子とし、教え、育てなければならないのか。なぜ地域社会に仕え、奉仕し、貧しい者や虐げられた者に近づくのか。それは、いまの世の秩序が永遠でないことを知っているからです。いかなる勢力や文化、お金や権力も永遠ではあり得ないと悟り、やがて到来する神の国を見つめているからです。だからこそ教会は神の国の価値と義を世に示し、世の暗闇を照らす灯火となるのです。イエスご自身が教えられた「御心が天で行われるように地上でも行われますように」という祈りのとおり、教会は地上において神の支配を先取りし、告げ知らせる「先味見」の存在であるべきです。
このように、終末論は教会の宣教的使命とも緊密に関わっています。マタイの福音書24章14節でイエスは「この御国の福音は、すべての国民に対してあかしとして全世界に宣べ伝えられます。それから終わりが来ます」と語られました。つまり、福音が地の果てにまで伝えられることが、終末の必須条件なのです。神学者たちが言うように、私たちは終末が「いつか」来るだろうと漠然と推測するだけでなく、福音を万民に伝える働きを通して歴史の完成を準備し、加速させる使命を帯びているのです。教会が宣教に情熱を燃やさなければならない理由はここにあります。単に教会の規模を拡大したり、個人の栄達を目的とした伝道ではなく、「だれ一人滅びることなく」救いに至るよう願われる神の大いなるみこころに協力するためなのです。
張ダビデ牧師は、このように終末論と宣教とが切り離せないものであることを、繰り返し力説します。多くの人は「終末」と聞くと恐怖し、回避すべき対象と考えるかもしれませんが、新約聖書が語る終末は徹底的に「祝福された望み」に満ちています。その祝福された望みを具体化したビジョンこそが「新しい天と新しい地」です。もちろん、いま私たちが生きる世界は罪によって歪められ、苦しみと不義が蔓延しています。けれども、もしクリスチャンが終末の希望をしっかり掴んで生きるならば、不正な現実に安住したり絶望したりするのではなく、むしろ正義と愛を実現するために積極的に献身するようになるでしょう。すでに始まっている神の国と、まだ完成していない神の国との間にある「すでに」と「まだ」の緊張の中で、教会はイエス・キリストによってすでにスタートしたが、完全には至っていない神の国が、確実に到来すると信じつつ、具体的な実践を続けていきます。
「このすべてがこのように溶け去るのなら、あなたがたはどのような人であるべきでしょうか」(ペテロの手紙第二3章11節)
という問いは、私たちに実際的で具体的な決断を迫ります。悔い改めず放縦に生きるのか、それとも神の支配を先取りし、聖なる歩みと敬虔を実行するのか。私たちが大宣教命令(Great Commission)を握りしめて福音を伝え、教会内外で恵みと愛を分かち合う生き方は、まさにこの終末論的決断の一形態なのです。神は「一日は千年のようで、千年は一日のよう」な視点で宇宙と歴史を治めておられますが、私たちにはその時間が長く、遠く感じられることもあります。ときには神の約束が遅いように思え、疲れ果ててしまうかもしれません。けれどもまさにそのとき、「神の日を切に待ち望みなさい」(ペテロの手紙第二3章12節)という御言葉が私たちを再び呼び覚ますのです。その日は必ず来ます。その日に至れば、キリストにあって私たちが苦労し、献身してきたすべてのことが決してむなしくはなかったことを確信するでしょう。
さらに張ダビデ牧師は、ペテロの手紙第二3章が示す終末観を通して、教会が歴史に対して責任を負わなければならないという点を改めて強調します。聖書は単に個人的な救いだけを語っているのではありません。神の救いの御業は、個人の内面的回心から始まって、その人が属する共同体や社会、さらには全世界へと広がっていきます。この広がりは「歴史の救い」とも要約でき、個人救済だけを狭く見る視点を超えて、私たちが足を踏みしめる歴史を変え、改革していく責任意識へと私たちを導くのです。イエスが「あなたがたは地の塩であり、世の光です」と言われた言葉は、教会がこの地に存在する理由が明白であることを示唆します。塩は腐敗を防ぎ、光は闇を照らし道を見せます。もし教会がその役割を放棄するなら、世界は道を失い、さらに深い混乱へと陥るでしょう。
終末論は私たちに「世界宣教と社会変革」という課題を同時に与えます。「新しい天と新しい地」を待ち望む者は、今の地を放置したり回避したりしません。むしろ真のクリスチャンは、この地を神のみこころにかなう形へと変えていこうとする情熱に駆り立てられるのです。その具体的現れは、政治や経済、文化などさまざまな領域でキリストの価値観を伝えて実行する姿かもしれませんし、あるいは教会の中で貧しい人を助け、不遇な隣人を世話しつつ、小さなことから変化を試みる形かもしれません。大切なのは、「新しい天と新しい地を願い求める」という命題が決して未来への憧れや空想にとどまらず、今この瞬間において神の正義と愛を行う具体的で現実的な力として働かなければならない、ということです。
張ダビデ牧師は、信徒たちが人生のどの領域で活動していようとも、その場で神の支配が現れ、神の公義が実現されるよう努めることこそ、「終末論的霊性」の核心だと言います。企業で働く人なら正直さと透明性を守り、政治や公的領域で活動する人なら正義と公益を最優先にし、家庭では犠牲的な愛を実践し、学問や文化の領域では創造的で善なる影響力を広げる。これこそが彼の言う「歴史意識をもつキリスト者」の姿勢です。あちこちで「不安な時代・社会だ」と言われる今日ですが、終末論的な希望をはっきり持っている人々は、それぞれの現場で「神の人」として生き、来たるべき終わりの日に示される栄光をあらかじめ予告するしるしとなるのです。
ペテロの手紙第二3章3〜13節は、歴史の最終的な帰結点がどこにあるのかを示しています。信仰者は、その神の歴史が完成する日を見つめながら、今日という一日においても「どのような人であるべきか」という問いに応答しなければなりません。これこそが教会が存在する究極の目的であり、教会の中のあらゆる賜物と職分、そして奉仕のすべての行為が志向すべき方向でもあるのです。
張ダビデ牧師がよく例え話として用いるのは、船が航海するときに目的地が不明確だと、途中の進路変更を適切にできず、暗礁に衝突したり漂流してしまいやすい、というものです。私たちにとって明確な目的地は「神の国」であり、その完成は「新しい天と新しい地」として具体化されます。教会はその目的地に向かって共に航海する共同体です。各人に与えられた賜物と職分は航海の道具であり、大宣教命令を成就するためのエンジンや原動力なのです。船内には、船長の役割をする使徒的リーダーシップも必要だし、航路を読み取る預言者的洞察も必要です。また、乗組員たちを教え訓練する教師もいれば、船内の食料や物資、清掃、衛生管理などを担当する奉仕者たちも不可欠です。こうした多様な職務が有機的に協力し合うとき、船は追い風を受けたように前へ進めるのです。そして最終的には、主がご用意された「義と愛と栄光」に満ちた港へ到着することができるでしょう。
そうであるなら、教会が行うすべての宣教や奉仕は、決してむなしいものではありません。主が任せてくださった小さな事柄に忠実であるたびに、私たちは神の救済史に参与しているのです。その日は決して遅すぎることはありません。神はただ、より多くの人が救われるために長く忍耐しておられるのです。その愛を知るがゆえに、教会は福音を叫び続けなければなりません。福音を知らない人々には救いへの道を示し、すでに教会に加わっているが信仰が冷めている人々には、再び御言葉と聖霊によって目を覚ますよう助けなければなりません。初代教会がそうであったように、教会は聖霊が与える運動力によって絶えず動き続ける必要があります。一つ所に安住したり、自分たちを保全することだけに終始するようになってしまえば、それはすでに活力を失った共同体にすぎません。
聖書は繰り返し「目を覚ましていなさい」と命じます。この「目を覚ましていること」は、終末論的な覚醒であると同時に、宣教的な熱意を抱く覚醒でもあります。「この時代が霊的にいかなる状況に置かれているのか」を見極め、「私はどのような者として生きるべきなのか」を絶えず問う姿勢です。そこから私たちが歩むべき道は明確になります。イエス・キリストの大宣教命令に向かって走る宣教の実践、教会内で互いの賜物を通して奉仕し合い、築き合う愛の共同体性、そして終末に関する確かな信仰によって、現実をしっかりと耐え抜く霊的な勇気--これこそが、「主の日」を備える私たちの生き方であり、ペテロの手紙第二3章が提示する敬虔な生の具体的な姿なのです。
教会のあらゆる職分と賜物は、大宣教命令と終末論的展望に向けられていなければなりません。賜物と職分が「自分」という個人の能力誇示や自己拡張の手段に堕してしまうとき、教会は葛藤と分裂の渦に陥ります。しかし、それらすべてを神からいただいた贈り物と認識し、奉仕の機会と捉えるとき、教会は驚くべき一致と相乗効果を体験するようになります。その一致の中で「新しい天と新しい地」に向かう希望はいっそう確かなものとなり、個人の救いにとどまらず、歴史と社会の救いへとつながる巨大なビジョンへと拡大されていくのです。このビジョンこそ、キリスト教信仰の核となる原動力です。そのため、張ダビデ牧師は、教会が直面するさまざまな挑戦や問題に対してむしろ「これこそ教会がいっそう目を覚まし、世に仕えるチャンスなのだ」と強調します。私たちはまったく新しい何かを発明するのではなく、すでに聖書の中に示されている「巨大な光」のビジョンをもう一度回復し、それに自らを完全に委ねるだけです。そしてその光がいよいよ輝きを増すほど、世の暗闇は退き、イエス・キリストの福音は広がっていくでしょう。
私たちが待ち望むその日は、決して遠い夢ではありません。神はこの時代にも多くの教会と聖徒を通して、福音の光を照らしておられます。それぞれが自分の場所で祈り、礼拝し、教え、奉仕するすべての働きは、神の主権のもとで決してむなしく終わることはありません。いつの日かイエス・キリストの御前に立つとき、私たちの苦労と献身は、主の国を広げることに参加した尊い足跡であったと分かるでしょう。だからこそ私たちはその日を慕い望みます。「神の日の来るのを待ち望み、それを早めなさい」(ペテロの手紙第二3章12節)という使徒ペテロの勧めは、1世紀の教会だけに有効だったのではありません。今の私たちの教会や信徒にも等しく適用される、生きた真理です。世の嘲笑や冷笑が続くとしても、私たちは決して落胆しません。神の国が必ず到来することを確信しているからです。そしてその国をともに迎えるため、一人でも多くの魂に福音を伝え、教会のさまざまな賜物と職分を総動員して互いを建て上げるべきです。これこそが私たちの特権であり、使徒的伝統から受け継いだ使命でもあります。
教会のあらゆる活動が、この「終末論的志向」と「宣教的目的」の上に再定義されるとき、私たちは一層はっきりと道を進むことができます。教会の内部で起こる葛藤や混乱、あるいは世間から向けられる否定的な視線も、この本質を取り戻す過程の中で少しずつ解消に向かうかもしれません。なぜなら「教会がなぜ存在するのか」という問いに対する答えが、まさにここにあるからです。この問いに明確に答え、その方向へ前進する教会は、決して漂流したり、道を見失ったりしないでしょう。神が約束された「新しい天と新しい地」が私たちの前に広がり、その義と平和に満ちあふれることでしょう。そしてその日を待ち望む私たちが、教会の中で互いの職分と賜物を通じて助け合い建て上げる姿こそ、この地上において天国の予告編を示すものです。これは初代教会だけの物語ではありません。今この時代にも、これから先の未来にも、教会が握りしめるべき永遠の規範なのです。
この全過程へ私たちを招いてくださる神に感謝しつつ、私たちは改めて決意します。私たちの職分、賜物、献身は主がくださった贈り物であり、同時に責任なのだと。ゆえに「神が与えてくださったさまざまな賜物に応じて善を行い、疲れずに最後まで走り抜く」という決断が必要となります。その道程において、張ダビデ牧師をはじめ、現代の多くの霊的指導者たちが強調することは一つです。「落胆するな。主が約束されたあの日は決して遅くない。万物が初めて創造された時のように、神は再びすべてを新しくされるだろう」。私たちにできることは、与えられた場所で黙々と祈り、礼拝し、教え、奉仕し、互いに励まし合うことです。同じ教会という船に乗って航海する私たちは、皆が同労者なのです。誰一人として独りで漕ぎ出すことはできず、互いに寄り添い合って進まなければなりません。この一致と協力の中で、教会は初めて主が望まれるあの美しい姿を現すことができるのです。
ペテロの手紙第二3章3〜13節に示される終末論的な展望は、「敬虔な行いと聖なる生活」(ペテロの手紙第二3章11節)を強調します。これは決して個人の敬虔生活だけを意味するのではありません。もちろん、個人の内面的な聖さも非常に重要ですが、同時に教会が社会や歴史の中で光と塩として機能する「共同体的敬虔」、すなわち正義と愛とケアにあふれた姿を表すことも必要不可欠です。そこには教会内での祈りや礼拝、み言葉の教育、さまざまな奉仕活動、そして世の中での職場生活や家庭生活、社会的責任など、あらゆる領域が含まれます。それら全体が神の支配を映し出す場となるのです。そう捉えると、教会と世が完全に切り離されているのではなく、教会を通じて世が変えられ、世の苦悩を教会が背負い、ともに「新しい天と新しい地」へ向かっていく長い旅路が開かれていることが分かります。これこそが聖書が語る救済史の全体図であり、私たち一人ひとりは、その壮大な救いのドラマに招かれた役者であり働き手なのです。
教会は賜物と職分を通じて互いに仕え、大宣教命令に献身することで、終末論的ビジョンである「新しい天と新しい地」を具体的に実現へと近づけていく「エクレシア」です。賜物と職分は神から与えられた贈り物であり、その目的は奉仕と愛、そして福音の拡大にあります。また、歴史は直線的に流れ、やがて主の再臨とともに「新しい天と新しい地」が到来すると信じる信仰者は、この地上の現実の中で聖く敬虔に生きなければなりません。終末論的信仰が「現実逃避」ではなく、「現実変革」と「使命達成」へと結びつくことこそが肝心なのです。張ダビデ牧師をはじめ、多くの指導者が強調するのもまさにそこです。私たちは教会共同体の中で礼拝し、祈り、教え、奉仕することを通して、神の国の栄光が少しずつ現れるのを目撃するようになる。そしてついには、主が備えてくださったその日が到来したとき、私たちの献身はいのちの書に記された美しい実を結び、永遠の御国で主とともに新しく完全な人生を享受することになるでしょう。これこそが信仰の旅路に与えられた最大の喜びであり、教会が握りしめるべき確固たる希望なのです。

















