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終末と大使命の道 – 張ダビデ牧師

 

1. 福音書と使徒の働きをつなぐ橋

本日の本文である使徒の働き1章6-8節とヨハネの福音書21章18-23節は、外見上は遠く離れたテキストのように見えますが、実は非常に密接につながっています。ヨハネの福音書は新約聖書の四つの福音書の中で最後の福音書であり、その直後に続く書が使徒の働きです。ところがヨハネの福音書21章は、福音書と使徒の働きをつなぐ「橋」のような役割を果たす章だとしばしば説明されます。というのも、ヨハネの福音書全体は20章で充分に完結した構造を持っているように見えるにもかかわらず、21章が付け加えられているからです。21章では復活されたイエス様が再び弟子たちに現れ、ペテロを回復させ、彼らの将来の働きと運命について語られますが、その内容が使徒の働きで示される初代教会の始まり、そして弟子たちの働きと密接に関わっているのです。

まず使徒の働き1章6-8節を改めて見てみましょう。

「そこで彼らは一緒に集まったとき、イエスに尋ねて言った。『主よ、イスラエルの国を回復してくださるのはこの時なのですか。』イエスは言われた。『その時や時期は父がご自分の権威においてお定めになっているのであって、あなたがたの知るところではない。しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受け、エルサレム、ユダヤ全土およびサマリヤのすべての地方、さらに地の果てにまで、わたしの証人となるであろう。』」(使徒1:6-8)

ここで弟子たちはイエス様に直接、「イスラエルの国を回復してくださるのはこの時ですか」と尋ねます。これは本質的に「神の国がこの地に到来し、完全に回復される時」を指します。イエス様を十字架にかけて殺した歴史の暗い局面を経たあと、復活されたイエス様に出会った弟子たちは再び「イスラエルの回復」、すなわち神の国の到来への具体的な希望を抱いたのです。それに対してイエス様は、「その時や時期は父がご自分の権威においてお定めになっているのであって、あなたがたの知るところではない」と明確におっしゃいます。つまり終末、あるいは決定的な神の国の完成の時点は、人間が予測したり特定できるものではなく、それは唯一、父なる神に委ねられているという意味です。

この観点をもってヨハネの福音書21章に目を移すと、「その時や時期は人間が知るべきことではない」という精神が再び言及される場面が登場します。ヨハネの福音書21章は、大きく三つの区分に分けられるとよく説明されます。

  1. 復活されたイエス様がガリラヤ湖で弟子たちに現れ、「舟の右側に網を下ろしなさい」と命じ、弟子たちが網を満たす"豊漁"(153匹の魚)が起きるエピソード(ヨハネ21:1-14)。
  2. イエス様がペテロに「あなたはわたしを愛しますか」と三度問う場面で、イエス様を否認したペテロを"牧養の働き"へと回復させる物語(ヨハネ21:15-17)。
  3. 続く第三の区分で、イエス様はペテロの殉教の予告、そして愛する弟子(使徒ヨハネ)の将来への示唆、さらに「わたしが来るまで彼を生かしておきたいと思っても、それがあなたに何のかかわりがあるのか」(ヨハネ21:23)という言葉を通して、終末と再臨に関する重要な言及をされる(ヨハネ21:18-23)。

特にヨハネの福音書21章23節の「わたしが来るまで彼を生かしておきたいと思っても、それがあなたに何のかかわりがあるのか」という御言葉は、イエス様が地上で語られた最後の言及の一つだとしばしば解釈されます。イエス様が十字架上で息を引き取られる前の最後の言葉はヨハネ19章30節の「完了した(It's finished)」ですが、復活された主が地上で弟子たちに残された最後のメッセージとしては、ヨハネ21章の御言葉が大きな重みを持つというのです。

イエス様はヨハネ21章でペテロに殉教の道を示唆し(「あなたは若いときには自分で帯を締めて歩きたいところへ行ったが、年をとると両手を伸ばして、ほかの人があなたに帯を締め、あなたの行きたくない所へ連れて行くようになる」- ヨハネ21:18)、そして「わたしに従いなさい」(ヨハネ21:19)と命じられます。このときペテロが振り返って「イエスが愛されたあの弟子」ヨハネを見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と尋ねると、イエス様は「彼をどうしようとあなたには関係ない」と言われます。これは使徒の働き1章7節の「その時や時期は父がご自分の権威においてお定めになっているのであって、あなたがたの知るところではない」という言葉と密接に呼応します。つまり「時や時期」に関する人間の関心や疑問がある時、イエス様はそれが人間が勝手に干渉したり予想したりする問題ではないと明快に釘を刺されるのです。その代わりに、わたしたちがすべきことは何か、すなわち今日わたしたちに委ねられた使命は地の果てにまで福音を伝え、神の国が来るように祈りながら生きることだと、はっきり示してくださいます。

牧師である張ダビデ氏は、これらの本文(使徒1:6-8、ヨハネ21:18-23)が「終末」と「大使命(Great Commission)」を一つにつなぐ上で非常に重要な役割を果たしていると注釈しました。彼が注目するのは、イエス様が終末や再臨の具体的な時期を隠された理由は、まさに「教会と聖徒の宣教の使命」にいっそう徹底的に焦点を合わせさせるためだという視点です。ヨハネの福音書21章の最後のやり取りが使徒の働き1章でのイエス様の昇天直前の言葉とどのようにかみ合っているかを見れば、クリスチャンが取るべき最も重要な姿勢は、終末の「時期」を算出したり気にしたりすることではなく、「ただ聖霊が臨むときに証人となる」という召しに忠実に生きることだと悟るのです。

この点で、しばしば言われる「ディスペンセーショナリズム(世代主義的終末論)」や様々な神秘主義的終末論において特定の日付を計算したり、終末のシナリオを描くことに没頭する姿勢が非聖書的だという指摘には説得力があります。「その日、その時は子(イエス)も知らず、ただ父だけがご存知である」(マタイ24:36)とイエス様が語られ、「時と機会は父がそのご自分の権威において定められたのだ」(使徒1:7)という宣言は、終末の時期について人間が軽々しく決定的な確信を持って語り得ないことを示しています。またヨハネ21章22-23節に言及された「わたしが来るまで彼を生かしておきたいと思っても」という御言葉が初代教会において「ヨハネが生きている間に再臨が起こるのでは」という誤解を生んだものの、むしろこれは「その時期は我々の知るところではない」という主の根本的メッセージを逆説的に示しているとも言えます。

張ダビデ牧師はこうした文脈において、ヨハネの福音書21章を福音書と使徒の働きをつなぐ重要な「移行の場面」として解釈します。21章において復活の主は「牧養と従順」を通して弟子たちを回復させると同時に、「終末に関する究極的な指針」を与えられます。そしてその指針は使徒の働き1章につながり、弟子たちが聖霊の力によって地の果てにまで福音を伝える働きを担うように準備させるのです。したがって使徒の働き1章6-8節に言及される「エルサレム、ユダヤ全土、サマリヤ、および地の果てまでわたしの証人となれ」という命令は、ヨハネの福音書21章でペテロとヨハネが聞いた「終末と再臨に関する直接的な御言葉」と不可分の関係にあると言えます。

結論として、ヨハネの福音書21章と使徒の働き1章は別々の出来事を扱っているように見えますが、福音書時代から教会時代へ移行する過渡的な時点に置かれることで、非常に重要な神学的・牧会的示唆を与えています。すなわち終末と再臨は、「知り得ない時」に執着するのではなく、「確かな約束」を握りつつ、弟子たちと教会が「わたしの羊を飼いなさい」という牧養の使命と、「ただ聖霊の力によって証人となる」という宣教の使命を全うして生きるべきことを強調するのです。


2. 終末と神の国、そしてわたしたちの大使命

使徒の働き1章6-7節で弟子たちは「イスラエルの国が回復される時」について問うと、イエス様は「あなたがたの知るところではない」と答えられます。これはヨハネの福音書21章で「わたしが来るまで彼を生かしておきたいと思っても、それがあなたに何のかかわりがあるのか」と語られたことと同じ文脈です。初代教会の時代も今の時代も、多くの人々が終末、あるいは神の国の完成がいつ起こるかを気にし、ときにはその「時期」を独断的に解釈して誤った期待や予言を出します。しかしイエス様は繰り返し「時や時期は父がその権威のうちに定めておられる」と言われ、人間がそこに干渉することはできない領域であることをはっきり示されます。まさにこの点で張ダビデ牧師は、教会が神の国の完成を待ち望む姿勢として、実際的にどのようにあるべきかを示すと解釈します。

聖書全体を貫く救いのドラマは、結局「神の国の回復」に帰結します。創造の時から神様はこの地に御自分の統治を置き(「わたしはある(I AM)」- 出エジプト3:14)、エデンの園で人類と交わりを持とうとされました。しかし人の堕落によって罪が入り、それによって世界に崩れと苦しみがもたらされました。それでも旧約聖書の至る所で「神の国」が再び来るという預言と約束が繰り返し示されます。イスラエルの民にはヤハウェの日、すなわち神が悪を裁き、正義と平和に満ちた日が来るという希望がありました。新約時代になると、この約束はより具体化され、「イエス・キリスト」がその実現の中心として登場します。イエス様の公生涯のメッセージの核心も「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(マタイ4:17)でした。

しかしイエス様の復活後も弟子たちは依然として「その国はいつ回復するのか」「主はいつ来られるのか」と尋ねます。イエス様はこれに答える代わりに「あなたがたの知るところではない」と言われ、その後に「ただ聖霊があなたがたに臨むとき、あなたがたは力を受け、地の果てにまでわたしの証人となるのだ」(使徒1:8)と要請されます。ヨハネの福音書21章でも同じ精神が表れます。ペテロはイエス様が自身の殉教を予告したのち、そばにいたヨハネを見て「主よ、この人はどうなるのですか」と尋ねます。そのときイエス様はあっさりと「わたしが来るまで彼を生かしておきたいと思っても、それがあなたに何のかかわりがあるのか。あなたはわたしに従いなさい」とおっしゃり(ヨハネ21:22)、「あなたはわたしに従いなさい」と強調されます。

この御言葉には二つの重要なメッセージが含まれています。第一に、人間は神のご計画と主権を勝手に計算したり干渉したりできないということです。イエス様の再臨の時期、歴史の最終的完成の時はただ父なる神に属する領域です。第二に、たとえそうであってもわたしたちがなすべきことははっきりしているということです。すなわち、地の果てまで福音を伝え(使徒1:8)、「わたしの羊を飼いなさい」(ヨハネ21:17)という牧養の責任を尽くすことです。主はわたしたちの好奇心や疑問を満たすことに重点を置かれません。むしろわたしたちを「福音伝達と牧養の場」へと招かれます。このようにヨハネ21章と使徒1章が交わる点は、終末論への関心を「神の国に向かう具体的な従順と使命の遂行」へと転換させる信仰的チャレンジにあると言えます。

ヨハネの福音書21章15-17節の「わたしの羊を飼いなさい」という御言葉は、一時イエス様を三度否認したペテロに与えられた特別な命令でした。ペテロが「主を愛している」と告白するたびに、イエス様は「わたしの羊を飼いなさい」と三度繰り返されます。ここには、イエス様が「わたしの羊」と呼ばれる群れは本質的にイエス様ご自身のものであることが明確に示されます。牧養を任された者は「主の代わりをするしもべ」に過ぎず、究極的主人はただイエス様だけです。教会もまたイエス様のからだであり、イエス様の所有です。ペテロはこの命令を聞き、これからの自分の生が殉教に至ると(ヨハネ21:18-19)分かっていても、敢然とその道を歩んだという伝承が初代教会の中で伝わっています。「あなたはわたしに従いなさい」というイエス様の命令は、マタイの福音書4章でペテロが最初に弟子として召されたときの命令(「わたしについて来なさい。あなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう」)と同じ表現ですが、今やはるかに深い次元の決断を要求する言葉として迫ってきます。すでにイエス様は十字架の道を歩まれ、復活され、ペテロもその道に加わるという、運命的かつ犠牲的な招きが込められているのです。

「あなたは若いときには自分で帯を締めて歩きたいところに行ったが、年をとると両手を伸ばして、ほかの人があなたに帯を締め、あなたの行きたくない所へ連れて行くようになる」(ヨハネ21:18)という預言的な御言葉は、後代の教会の伝承によると、ペテロがローマで逆さ十字架にかけられて殉教したという話と重なります。初代教会共同体は、ペテロが殉教したという事実をもってこの言葉が成就したことを記憶し、ヨハネ21章19節は「これはペテロがどのような死に方によって神の栄光を現すかを示しておられる」と補足説明しています。ここで「神の栄光を現す」という表現は、ペテロの殉教がイエス様の従順をそのまま踏襲することで、神をあがめる行為であったことを示唆します。

興味深いことに、福音書は他の使徒たちの死に関して、直接的な言及をあまり残していません。さらに書物の後半である使徒の働きも、使徒たち全員の殉教の経緯を詳細には記していません。しかし教会の伝承では、ほとんどの使徒たちが殉教の道を歩んだと伝えられます。これによってわたしたちは、使徒たちが「わたしの羊を飼いなさい」「ただ聖霊が臨むときに証人となりなさい」という使命を生命とみなし、実践していたことを知るのです。彼らの殉教的な生き方によって、わたしたちが今持っている信仰は単なる「学問的知識」や「社会的文化」としてのキリスト教ではなく、命を捧げる従順の伝統の上に立っているのだということを改めて思い起こさせます。

このようにヨハネの福音書21章が「終末」「復活後のイエス様の最後の言葉」そして「弟子共同体の未来」を同時に語るならば、使徒の働き1章は「イエス様の昇天」「聖霊降臨の約束」「教会の使命の開始」を具体化します。そこで張ダビデ牧師は、この二つの本文が「福音書の時代から教会の時代へ移る転換」を最も鮮明に示しているテキストだと強調します。ヨハネの福音書21章の「わたしが来るまで彼を生かしておきたいと思っても、それがあなたに何のかかわりがあるのか」という御言葉は、終末の時期に対する人間的な好奇心に縛られず、主が召された道を歩むことこそ弟子の道だと宣言します。そして使徒の働き1章7節の「その時や時期は父がその権威のうちに定めておられる。あなたがたの知るところではない」という御言葉で具体化され、教会が担うべき大使命が何であるかを明確に提示します。「ただ聖霊があなたがたに臨むとき、力を受け、エルサレム、ユダヤ全土、サマリヤ、そして地の果てまでわたしの証人となる」(使徒1:8)という命令こそが、わたしたちが地上で終末を待つあり方であり、神の国の拡張を地上で実現していく具体的な道なのです。

他の福音書も同様のメッセージを繰り返します。マルコの福音書は「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を述べ伝えなさい」(マルコ16:15)と宣言し、マタイの福音書は「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子とし、父と子と聖霊の名によってバプテスマを授けなさい」と具体的に示します(マタイ28:19-20)。これがまさに「地上大命令(Great Commission)」です。マタイの福音書は同時に「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる」という慰めの御言葉を付し、その日とその時はわたしたちには分からないけれども、主の共におられる保証がいつでもあることを約束されます。

こうして見ると、終末は恐怖や未知の不安ではなく、「完成される神の国」を見つめる信仰の方向であり、同時にわたしたちに委ねられた大使命を再確認させる触媒とも言えます。イエス様が「わたしは再び来る」と言われたとき、それは単に「その日が近いからすぐに来る」という予告ではなく、「わたしがいつ来ようとも、あなたがたは目を覚ましていて、与えられた任務に忠実でありなさい」という勧めでした。この点で「イスラエルの町々を回り尽くさないうちに人の子は来るであろう」(マタイ10:23)という御言葉も同じ文脈で理解できます。イエス様はイスラエルの小さな地域すら十分に福音が伝わっていない状況の中でも再臨が差し迫っていると言われます。すなわち、いつでも「再臨が間近」であるという自覚をもって、わたしたちは時と機会を無駄にせず福音伝達の使命に邁進すべきであるという意味です。

張ダビデ牧師は終末論に向き合うとき、教会が取るべき姿勢をたびたび強調していますが、その中心にあるのは「再臨の時期の算出ではなく、与えられた使命の成就」という点です。教会史はすでに幾度となく誤った終末予言やシナリオによって大きな混乱や弊害を経験しました。しかし聖書ははっきりと「その日その時はただ父だけがご存知」と宣言します。ですからわたしたちは「主がいつ来られるか」という問いよりも、「今わたしたちは主の命令どおり福音を伝えているのか」「主がお委ねになった羊をちゃんと世話しているのか」という問いに自分自身で答えるべきなのです。これこそが「わたしが来るまで彼を生かしておきたいと思っても、それがあなたに何のかかわりがあるのか」という御言葉に秘められた核心であり、使徒の働き1章8節の宣教指向的メッセージとそのままつながっています。

ヨハネの福音書21章でイエス様はペテロの殉教を予告し、それによる具体的な恐れや混乱よりも「他の弟子はどうなるのか」という的外れな関心をペテロが示すとき、「あなたがそれをなぜ気にするのか。あなたはわたしに従いなさい」ときっぱり語られます。これは教会内でよく起こる比較、妬み、不要な好奇心を正面から扱う本文でもあります。結局のところ「あなたは主だけを見つめ、主の行かれた道を歩みなさい」というメッセージです。終末の時にせよ、他人の人生や運命に過度に介入しようとすることや、無駄な論争を巻き起こす態度はイエス様から見ればむなしい行為だという警告を含んでいます。

現代の教会もまた、この本文の前で自らを点検する必要があります。特に「終末論」というテーマを口にしながら「政治的解釈」「歴史的事件の徴候分析」に没頭し、肝心の「主が任せられた羊を養うこと」や「地の果てまで証人となる使命」をおろそかにする場合があります。あるいは他者の召命や運命を過度に知りたがり、関与しようとして、肝心の自分に託された使命を見失うこともあります。張ダビデ牧師は「ヨハネの福音書21章の教訓とは、自分の運命に一喜一憂したり神秘的な予測にとらわれるのではなく、神様が今自分に託された場所で忠誠を尽くすことだ」と説きます。イエス様がペテロに「わたしの羊を飼いなさい」と言われたとき、そこには「あなたのすべて(殉教さえも)を捧げねばならないかもしれない」という重い暗示が伴いました。そしてペテロはそれを受け入れ、最終的に主の教会を仕えるリーダーとして生涯を終えたのです。

使徒パウロも同じ姿勢で生きていたことを、彼の書簡の中で見いだすことができます。ピリピ1章20-21節で「わたしの身によってキリストがあがめられること、それが生きるにしても死ぬにしてもわたしの願いです。わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことも益なのです」と告白しています。つまりパウロは自分がどういう形で人生を終えるか分からずとも、オールインしてキリストを証し、あがめることを生の目的としていたのです。この点でペテロとパウロは同じ霊的次元、すなわち「いつ死ぬか、どこに導かれるか分からずとも、最後まで主の道を追い求める」という決断を示した代表的な人物と言えます。

こうした「殉教の精神」は初代教会時代の特殊な状況だけではなく、21世紀を生きるわたしたちにも重要な信仰の方向性を提示してくれます。もちろんわたしたちが生きる環境はイエス様の時代や初代教会とは違い、政治的迫害を直接受けない場合もあるでしょうし、聖職者や特定の宣教師だけでなく、一般信徒も様々な職業と生活の現場で信仰を証しします。しかし福音と神の国のために自分の生をすべて捧げる覚悟、そして「時や時期は分からなくとも、主が命じた使命に応える」という姿勢は今も変わらず求められます。教会の歴史は、こうした精神を持った信徒たちの「小さな殉教(生活の中での献身と犠牲)」によっても継承されてきたと言えるでしょう。

ヨハネ21章18-23節が語る終末論的メッセージと、使徒の働き1章6-8節が提示する大使命的メッセージは一つに集約されます。主が再び来られるその時まで、教会は羊を飼い(牧養)、世界の果てまで福音を伝える(宣教)使命を果たさなければなりません。再臨がいつなのか、どの日に起こるのかを推測することはわたしたちの知るところではないし、それがわたしたちの信仰の義務でもありません。そのすべてはただ神にかかっています。聖書が示す「健全な終末論」とは、この事実をわきまえ、「今日わたしがすべきこと」に集中させるものです。それこそ福音を伝えることであり、イエス様が託された羊を愛をもって世話することです。張ダビデ牧師はこれを指して「主はわたしたちが"終わり"を準備するのではなく、再臨がいつであろうとも"証人としての生き方"を続けることを望んでおられるのだ」と解説します。そういう意味で「わたしが来るまで彼を生かしておきたいと思っても、それがあなたに何のかかわりがあるのか」という御言葉は、現代の教会が持つべき終末神学の正しい姿勢を象徴的に示す箇所となるのです。

使徒の働き1章8節で「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受け、...わたしの証人となる」という御言葉は、教会が終末の時まで堅持すべき最も基本的かつ重要な使命宣言です。今日、様々な文化や時代的変化の中でも、教会はこの命令に従い、張ダビデ牧師が強調するように、家庭や社会の至る所で「小さなイエス」として生きるべきなのです。証人となるためには、単に口先だけで「イエスを信じましょう」と伝えるのではなく、生活自体がイエス様の道を辿る「牧養」と「献身」を包含します。そしてそのような証人としての生き方こそ、終末を正しく備えるライフスタイルであり、この地に神の国が漸進的に実現されるために協力する道なのです。

イエス様が地上での生涯の終わり近くに語られた御言葉(ヨハネ21:23)と、使徒の働き1章の「あなたがたの知るところではないが、地の果てまで証人となりなさい」という教えが相乗効果をもたらし、教会が終末と再臨に対して正しい観点を確立する手助けをしてくれます。わたしたちは終末の日付を計算するのではなく、主が来られるその日まで福音と愛の仕えを実践する使徒として召されています。「わたしが来るまで彼を生かしておきたいと思っても、それがあなたに何のかかわりがあるのか」という主の御言葉は、再臨の時期に関わるすべての権限が神にあることを宣言する一方で、わたしたちの視線がただ「従順と使命の遂行」に留まるべきであることを教えてくれます。したがってイエス様が弟子たちに「ただ聖霊の力を受けて証人となりなさい」と命じられた大使命は、教会が歴史の中で失ってはならない最優先事項です。この使命を成し遂げる道こそ「神の国の完成」へ進む道であり、「あなたがたの知るところではない時や時期」の代わりに「あなたがたが力を注ぐべき本分」に忠実であれという主の命令に応えることなのです。

張ダビデ牧師はまさにこの点を繰り返し強調し、教会が終末や未来に関する空想に陥らず、今与えられた時代的状況と環境の中で、聖霊の導きによる伝道、宣教、牧養を行う「生きた証人共同体」となるよう訴えます。そしてそのためには、終末が「いつ」なのかという関心よりも、「どのように」訪れ、「わたしたちがどんな態度」で待ち望み、従うかに焦点を当てるべきだと語ります。ヨハネ21章で復活のイエス様とペテロのやり取りは、この態度を鮮明に示す生きた実例です。ペテロは主から殉教の予告まで聞かされながらも、振り返って「この人はどうなるのですか」と尋ねましたが、イエス様は「それはあなたの知るところではない。あなたはわたしに従いなさい」という御言葉で彼を再び本来の位置へ導かれます。そしてその道を忠実に歩んだ結果が教会の堅固な基礎となりました。

このすべての過程は決して複雑に分離されません。神のご計画は一つであり、イエス様の命令も明確です。福音を伝えなさい。わたしの羊を養いなさい。その日がいつ来るか分からなくても、殉教さえ覚悟してこの道を歩みなさい。これがイエス様ご自身が自ら示された十字架の道です。そして使徒たち、初代教会の信徒たち、歴史上多くの信仰の先達たちはその道を受け継ぎ歩んできました。わたしたちも同じ歩みの中に立っています。最終的にすべてが成就するとき、「神の国は完全に到来する」のです。聖書の最後の書であるヨハネの黙示録は、「新しい天と新しい地」の到来によってすべての涙を拭い、「もはや死もなく、悲しみも叫び声も苦しみもない」(黙示録21:4)という究極的な約束によって締めくくられます。しかしその日までは、教会と聖徒はヨハネ21章でペテロが受けた命令と、使徒1章で主が弟子たちに授けられた使命を同時に受け取り、それを忠実に歩まなければなりません。神の救いのご計画は「時期」を知らないからと言って止まることはなく、「知るべきでないことに集中せず、託された使命を守る者たち」を通して進み、完成されるのです。

ヨハネ21章と使徒1章が連結して語る「終末と神の国、そしてわたしたちの大使命」は、決して切り離されたテーマではありません。「イスラエルの国の回復はいつですか」(使徒1:6)という問いと、「主よ、この人はどうなるのですか」(ヨハネ21:21)というペテロの問いは、すべてわたしたちの「人間的関心」がどこに向かっているかを露呈しています。しかしイエス様は「それはあなたがたの知ることではない」という断固たる姿勢で、わたしたちの視線を「福音伝達」と「牧養の現場」へ引き戻されます。そしてその道を行くために必要な力として聖霊を約束してくださるのです。この御言葉は21世紀を生きるわたしたちにも同様に適用すべき地上の命令です。決してやさしい働きではありませんが、聖霊の臨在が伴うなら可能となります。初代教会の時代のように、今も異なる文化や言語を超えて福音が伝えられ、神の国が段階的に拡張され続けているのを見るとき、主の御言葉は今なお有効であり、成就されていることが分かります。

「わたしが来るまで彼を生かしておきたいと思っても、それがあなたに何のかかわりがあるのか」というヨハネ21章の御言葉は、現代の教会に対する警鐘であり挑戦でもあります。教会が終末をあれこれ判断しようとしたり、他の人の運命をあれこれ推し量ろうとする試み、あるいは世代主義的な図表でシナリオを組み立てて予言するような行為はどれも正当ではないと教えます。反対に「あなたはわたしに従いなさい」という主の声に耳を傾け、「わたしの羊を養いなさい」という牧養の責任と「ただ聖霊によって証人となりなさい」という宣教の責任を果たすことが本質なのだと改めて認識させてくれるのです。張ダビデ牧師もこの点を繰り返し強調し、「教会が大使命の成就に集中するとき、最終的に神の国の回復は神の時の表にしたがって成就されるだろう」と解説します。わたしたちは「自分たちの知るところではない"時期"」を巡って混乱するよりも、今この瞬間にも隣にいる人々に福音を伝え、彼らを愛し、教会の内外で主の羊を世話することに力を注ぐべきなのです。

この姿勢こそイエス様が求められる真の終末論的な生き方であり、同時に教会が使徒の働き1章8節を通して召された大使命的な生き方でもあります。この二つの本文は互いに緊密に結ばれながら、イエス様がすでに十字架と復活によってわたしたちに開かれた救いの道と、これから来る再臨を結ぶ「現在の信仰実践」を指し示します。ちょうどヨハネ21章が福音書全体の締めくくりのように見えつつ、実際には教会の「使徒の働き的時代」を準備する役割を担っているように、わたしたちもまた教会の歴史的流れの中に立って、「福音宣教と牧養の使命」という貴重な橋を架けているのです。この橋を通じて一人の魂、そしてまた一人の魂が神の国へと導かれ、終末が近づけば近づくほど、教会はなおさらこの使命に燃える情熱を持つべきでしょう。その道の終着点には、約束された主の再臨と永遠の神の国の完成という実りが待っています。

だからこそ本日の本文を読むクリスチャンは、何よりも「時と機会」ではなく「主が与えられた使命」に敏感になる必要があります。「主よ、いつ来られるのですか」「他の人はどうなるのですか」という問いから抜け出し、「主よ、わたしは今日何をすべきでしょうか」「わたしはどうすれば主の道を従えるでしょうか」と尋ねる信仰姿勢こそが望ましいのです。その答えはすでに聖書の中に明確に示されています。「わたしの羊を飼いなさい」「地の果てまで証人となりなさい」そして「聖霊を受けなさい」。ヨハネ21章と使徒1章が見せるこのつながりが、わたしたちの日常の現場でいつも生きて働くことを願います。これこそが終末を準備する最も聖書的な方法であり、イエス様が弟子たちに最後に残された言葉の真意なのです。

張ダビデ牧師が説明するように、教会がこの召しを握って走るとき、終末への不必要な恐れや人間的な好奇心に縛られることがなくなります。むしろ「いつ来られても、主の前に恥じることがないよう使命を尽くす」クリスチャンの姿が、時代が暗いほどいっそう輝きを放つようになるのです。そしてそうした姿が世と文化を変え、より多くの魂を神様のもとへ導く決定的な役割を果たします。ペテロが殉教さえも喜びをもって受け止めたこと、パウロが「死も益である」と言えたこと、さらに多くの信徒が自らの命を懸けて福音を伝えてきた歴史は、「再臨の日と神の国を望みつつ、その具体的な時期を知ろうとせず、すでに与えられた命令に忠実である」という姿勢から生まれました。いまわたしたちも、そのまったく同じ道の上に立っています。

したがって「わたしが来るまで彼を生かしておきたいと思っても、それがあなたに何のかかわりがあるのか」という御言葉にこめられた意味を深く心に留め、「あなたはわたしに従いなさい」という主の御声に従順に応えることが、わたしたち一人ひとりが持つべき決断です。その道は平坦とは限りませんが、「ただ聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受け...」という主の約束が伴います。全人類が神の国に招かれるあの時に向かって、エルサレムから始まり、ユダヤ、サマリヤ、そして地の果てまで福音を伝えるこの大使命こそ、結局のところ終末に向かって走る歴史の中で教会が最優先で把握すべき「神聖な義務」であり「聖なる特権」だと言えます。

わたしたち一人ひとりもペテロのように、自分が「主を愛する」ことの意味を生き方で示さなければなりません。そしてパウロのように「わたしにとって生きることはキリスト、死ぬことも益」という告白を日常で実践すべきです。「時や時期」を見下ろせる方はただ父なる神だけです。しかし「わたしの羊を飼いなさい」と「地の果てまでわたしの証人となりなさい」という命令はわたしたちの責任です。この単純な真理を見失わないとき、ヨハネ21章が使徒1章へと続いていく流れを十分に理解でき、さらに聖書全体が語る終末論的ビジョンをはっきりと見据えることができます。

張ダビデ牧師が強調するように、ヨハネの福音書21章は福音書と使徒の働きをつなぐ橋の役割を担い、「終末と神の国、そしてわたしたちの大使命」がどのような関係にあるかを劇的に示してくれます。その核心メッセージは次のようにまとめられます。終末の時を問うことはわたしたちの所管ではない。わたしたちにとって重要なのは「わたしの羊を飼いなさい」というイエス様の御言葉と、「ただ聖霊の力によって地の果てまで証人となりなさい」という命令への従順である。その道に真の喜びと永遠の報いがある。初代教会の使徒たちと信徒たちはその道を歩み、今日も多くの信徒たちがその道を歩みながら教会を建て上げている。わたしたちもこの流れに参加し、神の国が完全に到来する終わりの日まで、忠実な執事・弟子として生き続けねばなりません。これがヨハネ21章23節と使徒の働き1章6-8節がわたしたちに同時に告げるメッセージであり、教会共同体とすべての聖徒が抱くべき信仰の方向なのです。