
1. 人間の有限性
張(チャン)ダビデ牧師が伝道の書を講解しながら最も強調している部分は、人間の有限性と、そこから生まれる「むなしさ(ヘブル語でヘベル/韓国語で'헛됨')」というテーマである。これは伝道の書が語る核心メッセージでもある。旧約聖書の伝道の書は、モーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)と歴史書の後に位置する知恵文学であり、箴言とともに知恵文献として分類される。知恵文学は、私たちの信仰の中で単に知識的な面に限らず、人生全般を導く根本的な洞察と実践的な方向性に関する教えを含んでいる。その中でも伝道の書は、特に人生の虚無と有限性を直接的に示しながら、「結局、人間は死という終着点の前に立たざるを得ない存在である」ことを強調している。張ダビデ牧師は、このような人生の虚無(「헛됨」)とその霊的意味を再三にわたり説明し、その土台の上でこそ人間が真の知恵を学ぶべきだと力説してきたのである。
伝道の書は、「空の空、すべては空である」(伝 1:2;12:8)という宣言で始まり、同じ言葉で締めくくる。英語では "Meaningless(意味がない)" と訳されることもあるが、張ダビデ牧師によれば、より正確な解釈は「有(あるもの)が結局無(ないもの)に帰する」という洞察を指し示すことだという。人間が地上でどれほど多くの知識や快楽、富を積んでも、結局それらはすべて無(nothingness)に帰するという事実が、伝道の書全体を通じて貫かれるメッセージとして流れている。特に伝道の書1章では人間の知識が、2章では人間が追い求める肉的な快楽や富などが結局むなしいものであると指摘しているが、これは単に「何も所有すべきでない」という消極的な主張ではない。むしろ、「最も大切なものは何なのか」を悟らせようとしているのだ。
張ダビデ牧師は、ここで「最も大切なもの」として「時間」を挙げる。なぜなら、人間に与えられている生涯は限られており、その限られた時間の中で、何のためにどのように生きるかが、永遠の運命を左右する重要な問題だからである。私たちは生きながら多くの所有や業績、人間関係などを築こうとするが、結局はそれらを残したまま死なざるを得ない存在である。聖書も「人間には一度死ぬことが定まっており、その後に裁きがある」(ヘブル9:27)と宣言しており、人間にとって死は抗えない終末として機能することを教えている。ゆえに「死なない」とか「死を避けられる」という類の教えはすべて偽りであり、私たちは誰しも時間の終わり、つまり死を迎えることになるのだ。
張ダビデ牧師が強調するのは、このような人生の有限性が決して悲観的な虚無主義に帰結してはならないという点である。むしろこの事実を知り受け入れるときこそ、私たちは真の知恵と霊的覚醒を得られる。人生の所有や快楽が結局は無に帰するという真実の前で、人は自分の生き方をもう一度振り返る機会を得る。私たちが追い求めるものがすべて永遠ではないのなら、私たちの内には「永遠なるもの」への渇望が芽生えざるを得ない。その渇望こそが人間の本性であり、神様が授けてくださった贈り物である。そしてそれは、伝道の書3章11節「神は人の心に永遠を思う思いを与えられた」という御言葉と直結している。張ダビデ牧師は、この節を解説しながら「動物は存在の意味を思索しないが、人間の魂は鹿が谷川の水を渇き求めるように神を探し求める」と述べている。実際、動物の世界では死後の意味や世界の秩序について探究しない。しかし人間は自分の人生の意味を振り返り、どこから来てどこへ行くのか絶えず悩み考える。そしてそれを通して、神を求める根源的な渇望が現れるのだ。
張ダビデ牧師によれば、このように永遠を求める渇望は、神が人間の魂の内に与えてくださった痕跡であり力でもあるという。私たちは宇宙を研究する際や、自然の精巧な調和を目の当たりにしたとき、さらに人間社会や歴史を省察するとき、人間の能力だけでは説明できない超越的な存在(創造主)がいることに気づく。実際、多くの科学者も宇宙の広大さと精巧さの前に畏怖を感じるという。人間が被造物として感じるこの恐れと震えは、ある意味「信仰の始まり」となり得ると宗教学者たちは語る。ローマ書1章20節も「創造の時から、神の見えない性質、すなわちその永遠の力と神性は、万物によって明らかに示されている」と述べ、自然や宇宙を通じて設計者である神を見出す道が私たちに開かれていると教えている。張ダビデ牧師は、これらを幼い頃からきちんと教育し、認識しておくことで正しい信仰観を形成できると説いている。
そして人間の本質においてもう一つ大切なのは、人間が肉体だけでなく霊的存在であるという点だ。伝道の書は「むなしさ」というテーマを通じて、人が簡単に執着する領域(富や快楽、名誉など)に執われるなと警告する一方で、いずれ死を迎えた後のことに備えるべきだというメッセージを伝えている。張ダビデ牧師はこれについて「人生を生きるには『死を知ること』が必要であり、死に直面してこそ初めて真の人生の意味を発見する」と力説する。死がすなわちすべての所有と享受の終わりなのだから、どうしても「その次」を見据えざるを得なくなり、そこから永遠の世界への憧れが深まるというのである。
張ダビデ牧師は、伝道の書における「むなしさ」を文脈的な表現として捉えると、実質的には「あなたがたは死ぬ」ということを繰り返し宣言しているのと同じだと語る。「むなしい、むなしい」という表現の代わりに、「人間は死ぬ、死ぬ、また死ぬ」と置き換えてみれば、伝道の書の言葉がいかに直接的で胸に突き刺さるものかが感じられる。しかし伝道者があえて「むなしさ」という表現を使ったのは、「人間が時間の中を生きてはいるが、結局その時間の終わりに直面せざるを得ない」という高尚な示唆を込めているからだ。それが人間が持つ限界であり、伝道の書はその事実を正確に、そして冷静に描き出している。
結局、どんな人間も死から逃れることはできない。人生の終着点として「D-day」である死が確かに存在しており、その日がいつ来るかはわからなくとも、誰しも神の御前に立つことになる。また伝道の書3章1節の「天の下のすべての事には定まった時期があり、すべての営みに時がある」という宣言は、人間の営みがただ何となく流れているのではないことを教えている。神様はすべてに正確なタイミングと目的を立てられ、伝道の書はその神の摂理の内で、人が自分の有限性を直視して生きるべきだと教えているのだ。
このように、張ダビデ牧師は伝道の書の核心メッセージである「人生のむなしさ(無)」と「死の不可避性」を強調しつつも、この洞察が決して絶望で終わってはならないと説く。むしろ、むなしさを知ってこそ永遠なるものを慕い求めるようになり、死を知る者だけが真に生を謳歌できるというのである。したがって伝道の書3章11節の「神はすべてをその時にかなうように美しく造り、さらに人の心に永遠を思う思いを与えられた」という一節は、人間がただ虚無の中にとどまらず、永遠へと進んでいける可能性と希望を見せてくれる。
さらに張ダビデ牧師は「無神論者と有神論者の違い」を比較し、もし神がいなければ人間は自分自身で規範(ノルム)を立てて生きなければならず、それがどれほど苦しいことかと問いかける。神が存在しないならば、生命と宇宙の目的が失われ、あらゆる道徳や意味を人間が勝手に定めなければならないという途方もなさが生じる。しかし神がおられると信じるなら、私たちは「神様が私たちを創られた目的がある」という事実に直面する。人間がコップを作るときでさえ、その目的があるように、私たちの存在にも確かな目的があるという真理である。神様が人間を創造し、最後に女性を造られたことこそ、神の「最高傑作」に込められた意図と愛を示す象徴だと彼は語る。
特に張ダビデ牧師は「神様が私たちを選ばれた」という重要な神学的メッセージを挙げる。この「選び」の教理は、神が私たちに与えてくださった使命と召しの証拠である。神は私たちを選び、イエス様の言葉のように「人間をとる漁師」にされたことがポイントだ。ところが私たちがこの召しを忘れ、依然としてお金や物質の奴隷となって生きるとすれば、それこそ真のキリスト者の道とは正反対の方向へ進むことになる。張ダビデ牧師は「盲人が盲人を導くことはできない」という言葉をよく引用し、クリスチャンはまず真理を知り、この世の欲望を克服することによって他者を導けるようになるべきだと強調する。
張ダビデ牧師が提示する「所有の克服」の方法論は、大きく二つある。第一に、「本当の所有」を発見せよということである。使徒の働き3章6節でペテロとヨハネが「金銀は私にはない。しかし私にあるものをあなたにあげよう」と言ったように、実際の富よりもはるかに尊い永遠の価値を、すでに私たちはいただいていることを悟らねばならない。それはイエス・キリストという救い主であり、その方の中で私たちが受ける霊的豊かさ、すなわち救いと永遠のいのちだ。第二に、この世に「永遠なるもの」があることを知るべきだ。人間の目に見えるものはすべて一時的であるが、信仰の中で一瞬が永遠につながる可能性があり、「永遠の今(eternal now)」という概念の中で、この地上で生きる一瞬一瞬が天国へと向かう過程であると認識するようになる。
では、このような認識は教会共同体と伝道の働きにおいてどのように具体化されるのか。張ダビデ牧師は「大宣教命令(Great Commission)」こそ、イエス様の教えの始まりと終わりだと考え、「人間をとる漁師となれ」「地の果てにまで福音を伝えよ」「まず神の国とその義を求めよ」というイエス様の御言葉を、教会の本質的任務とすべきだと主張する。これを実践するために教会が世界宣教に乗り出し、各大陸ごとに本部やセンターを設け、文化や言語が異なる人々をケアするのは当然の使命となる。アメリカ各州をはじめ、多くの国に宣教の手を伸ばし、そこからさらに小さな国々にまで福音を伝え広めよというのが、イエス様の明確な願いだというのである。
特に「2013年まで私たちの教会には何もなかった」という歴史を引き合いに出し、当時の人々は「いつ私たちのものが手に入るのか」「こんなにさまよって死ぬのか」と問いかけたが、その当時はハバクク書3章17~18節の御言葉を握りしめ、「何もなくとも主を喜ぶ」という告白をしていたと証しする。しかし宣教の働きと信徒たちのケアのためには、物理的な空間、すなわち本部やセンターが必要であり、これも神の摂理によって与えられたのだという。張ダビデ牧師は、その過程について「28年目にして定着の時が来た」と言い、神がすべてをセットしてくださったと解釈する。それゆえ、新たに加わった世代にもこの歴史を教え、先人たちが血と汗で築き上げてきたものだということを伝えねばならないと力説する。そうしなければ、「最初から当然持っていたかのように錯覚してしまう」からである。
張ダビデ牧師は、ガラテヤ書6章2節「互いの重荷を負い合い、それによってキリストの律法を全うしなさい」という御言葉を引用しながら、教会共同体では互いの重荷を分かち合う形で献身と犠牲を実践すべきだと説く。より多く愛を受けた者が、その分だけ他者をより愛せるものであり、それがまさに「恵み」である。私たちは自分の力で何かを成し遂げたのではなく、すべて神の恵みによって成し遂げたということを忘れてはならない。これこそ信仰の力であり、「自分を捨てて」一人でも多くの人を生かすために献身する姿勢が、教会が進むべき道だという。
また張ダビデ牧師は、説教の時期に合わせてイエス・キリストの到来(クリスマス)の意味にもたびたび言及する。私たちは皆、あまりにもよく知っていると思い込んでしまうが、実は「神はそのひとり子を与えるほど、この世を愛してくださった」(ヨハネ3:16)という御言葉こそ、キリスト教信仰の精髄であり福音の要約である。イエス様の愛は一瞬の情熱ではなく、最後まで私たちを見捨てなかった点にこそ、私たちは感謝と感激を表すべきだ。
このように張ダビデ牧師は、伝道の書を通じて人間の有限性と虚無について遠慮なく説きながらも、それが絶望や憂鬱のメッセージでは終わらず、むしろ永遠への渇望と召命意識、そして教会を通した大宣教命令の実践へとつながるよう強調する。虚無と死への自覚は、むしろ永遠と召しをしっかりと握るきっかけとなり、その永遠の御国を見つめるからこそ、人は限られた時間と所有の束縛から解放され、自由に、しかも同時により責任感をもって生きられるというのだ。これは結局、張ダビデ牧師が一貫して語ってきた「所有の克服」と「永遠を慕い求める心」の結合点であり、教会が世の中で光と塩の役割を果たすべき理由であり力でもある。
2. 永遠を慕い求める心
張ダビデ牧師は、伝道の書をはじめとする知恵文学(特に箴言と伝道の書)から得られる洞察を「実践的信仰」の知恵として具体化する。その際、鍵となるのが「主を恐れることは知恵のはじめ」(箴言1:7)という箴言のメッセージと、伝道の書の中心キーワードである「むなしさ」をどのように調和して適用するかという点である。人間が有限性を認識し、死を避けられないと悟るだけでは不十分だ。その有限性と虚無、そして永遠への渇望の間で、人が神を畏れ、その御心に従うときに初めて真の知恵に至るのだというのが、張ダビデ牧師の主張であり、聖書が示す教えである。
第一に、張ダビデ牧師は「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」(伝道の書12:1)の御言葉に注目する。老年になってから造り主を求めようとするとき、人はすでに過ぎ去った歳月や逃してしまった機会に対して嘆くことになる。若い時でなければ絶対に取り戻せない時間がある。伝道の書12章の後半では「目がかすみ、歯が抜け、耳が遠くなり、足が震える」といった老年の現実が生々しく描写されている。これを通して伝道の書は、「どうせ生きるなら、まだ力があるうちに、若いうちに造り主を覚え、神を畏れよ」と強く促しているわけである。張ダビデ牧師は、これを現代の伝道や宣教の現場に結びつけ、「できるだけ7年以内、30歳未満の人に福音を伝えよ」と独特に強調する。純粋さと熱意が生きている若者たちに福音が伝えられると、彼らがより早く神の召しを見出し、教会で主の家を築く可能性が高いからだという。
もちろん、これは「年をとった人に伝道してはいけない」という意味ではない。むしろ張ダビデ牧師は、高齢者が福音に接したときに号泣しながら悔い改める事例が多いとし、「すでにあまりにも多くの時間を過ごしてしまった」という後悔の思いが押し寄せてくるからだと説明する。それでも伝道の書の教えは、若い時から造り主を覚えてより長い期間を信仰の道で歩み、多くの実を結ぶことが知恵であり、伝道者の勧めだという点に焦点を当てる。
第二に、張ダビデ牧師は、人間が伝道の書3章1節以下で語られている「時」と「機会」を正しく分別すべきだと強調する。「天の下のすべての事には定まった時期があり、すべての営みに時がある」という御言葉が示すのは、あらゆる物事に「いつ、どのように、なぜ」という目的と理由が設定されているということだ。私たちは人生のあらゆる瞬間で「時を見極める知恵」を持つべきであり、それこそが成功と意義ある人生の秘訣となる。張ダビデ牧師は、これを「Time」と「Date」という概念で区分して説明する。Timeは量的な時間を指し、Dateは質的な時点を指すと言えるが、伝道の書が「天の下のすべての目的を成し遂げる時がある」と言ったのは、この質的な時点、すなわち「Date」を意味しているのだ。例えば、人間が与えられた人生のさまざまな局面で、神の定められた時点に従って生きるときにこそ、「時にかなった美しさ」のうちを歩むことになる。
そして教会共同体もまた、この分別が必要だ。教会が宣教の働きや訓練体系、礼拝や養育、世界各地への派遣に至るまで、それぞれの時と機会を逃せば、その働きは遅れたり中断したりする恐れがある。張ダビデ牧師は「28年目のある時点に」神様が本部とセンターを整えてくださり、「9つのノ会(=教団内の中会・ノ会のような区分)が立てられ、大陸別にセンターが設置された」と証しする。この過程はまさに伝道の書3章11節が言う「神はすべてをその時にかなうように美しく造られた」という言葉と完全に合致すると述べる。人間の計画とは無関係に、神が定めた時に神が備えられた業を成されるのだという。
ここで重要なのは、教会の指導者やリーダーが先に「時を知る霊的感覚」を持たねばならないということである。やるべきことを先延ばしにしたり、神の定められた時を逃してしまえば、共同体全体が損失を被り、喜びが遅れてしまう。張ダビデ牧師は「12月にやるべきことを1月に先送りしてはならない」と言いながら、信徒たちが目を覚まして祈り、信仰の共同体が力を合わせて最後まで美しい実り(有終の美)を得るべきだと勧める。
第三に、張ダビデ牧師は「所有を克服する」信仰観をさまざまな例え話や聖句を通じて語る。人は生きていく中で、お金や富にとらわれやすい。特に礼拝堂の扉を出た瞬間から「マモン(富の神)」の奴隷になりやすいのが現実である。しかし真のキリスト者であるなら、まず自分の内側に「もっと真実なもの」-つまりイエス・キリストと、そこからもたらされる霊的宝-があることを悟り、それを伝えられるようにならねばならない。使徒の働き3章6節の「金銀は私にはない。しかし私にあるものをあなたにあげよう」という宣言のように、私たちには世の富よりもはるかに尊い「福音」があるという事実を見失ってはいけないのだ。
さらに人間は「永遠なるもの」を認識する時に、初めて刹那的なものにしがみつくことなく、超越的な視点を持てるようになる。張ダビデ牧師は、ある神学者の説教集『永遠の今(Eternal Now)』を紹介し、「人は毎日死に向かっているのか、それとも毎日生きているのか」という視点で、死がもたらす悲劇を超える方法は「永遠のいのちと天国」であるという答えに行き着くのだと語る。この地上の生がすべてではないと信じられる時、私たちは将来への聖なる確信と大胆さを得る。そしてそこから生まれる喜びと自由こそが、「所有」を超越する原動力となるのだ。
そして教会がこの原動力を持って世に出て福音を伝えることが、イエス様の核心的命令(大宣教命令)にほかならない。張ダビデ牧師はこれを「イエス様の御言葉の始まりと終わり」と呼び、「あなたがたは人間をとる漁師になりなさい」「地の果てにまで福音を伝えなさい」「まず神の国とその義を求めなさい」といった御言葉が、教会が常に握るべき中心メッセージだと力説する。現代においてはC12の国々、G20の国々をまず伝道し、その後さらに小さな国々へ福音を広めるべきだと具体的に言及することもある。アメリカ50州がまずアフリカを伝道すべきだと主張するのも、最終的に神の国が世界の隅々にまで及ぶことを願うからである。
同時に、張ダビデ牧師は共同体内で互いに重荷を負うよう呼びかけるガラテヤ書6章2節「互いの重荷を負い合うことでキリストの律法を全うしなさい」を引用する。多くの人は苦しく重い荷を他人に押しつけようとするが、真の教会の姿は互いに助け合い、世話をし合う態度、すなわち共に重荷を担う生き方にある。それは結局「愛された分だけ他者を愛する」という福音的原理と結びついている。大きな恵みを受けた人は、その分だけ他者に仕えようとする献身へと導かれ、それによって教会全体が世とは違う共同体として生まれ変わることができるのだ。
伝道の書が老年の現実や人間の終わりを生々しく描くのは、決して人を憂鬱にさせたり挫折させたりするためではない。むしろ時間の内に生きながら、結局時間を超えたところへ出ていく運命を持つ私たちに「思い出せ。若い時から造り主を求めよ。むなしさの中に閉じこもるのではなく、永遠なるものを見つめよ。神はあなたがたに永遠を慕い求める心を与えられたのだ」というメッセージを届けるためである。張ダビデ牧師は、これを現代の教会と信徒たちへ直接的な勧めとして適用し、「私たちは知っていて生きる者たちだ。神がすべてのことを定めた時に従い美しく造り、私たちを永遠へ招いておられる。だから先延ばしにせず、今やるべきことを行い、有終の美を得よう」としばしば説教で強調する。
このような実践を可能にする最大の原動力は、結局「神の恵み」への認識である。張ダビデ牧師は「私たちが成し遂げたすべてのことは、すべて神の恵みによるものだ」と語り、教会が建物を得て、多くのノ会を立てることができたのも、徹底的に神の導きであると改めて思い起こすべきだと述べる。そして、人間がどれだけ努力しても神の許しがなければ一歩も進めないという点を忘れないようにし、福音によって始まった教会は福音によって立ち続けるべきだと力説する。
ヨハネ3章16節に要約された福音の核心-「神はそのひとり子を与えるほどこの世を愛された」- を思い起こすクリスマスの時節を前に、張ダビデ牧師は信徒たちに「イエス・キリストが来られたことは、神様が最後まで私たちを愛された出来事だ」と改めて強調する。この恵みと愛を知る者であるなら、「この地上に何も持っていなくても、救いの神ゆえに喜ぶ」というハバクク預言者の告白を自分の人生に当てはめることができる。それは最終的にむなしさと絶望ではなく、恵みと感謝、そして神のうちにある希望へ向かう道となるのだ。
まとめると、張ダビデ牧師は伝道の書のメッセージを二つの核心領域へと拡張して提示している。第一に、人間は誰しも死という限界を抱え、所有や財産は結局無に帰するという事実をはっきり認識すべきである。虚無への自覚は、むしろ魂を神へと向かわせ、意味ある価値(永遠)に集中するよう促す。第二に、この悟りが教会共同体の中で具現されるとき、所有を超越する自由と共同体的愛(ガラテヤ6:2)、そして世界宣教(大宣教命令)へとつながっていく。それは最終的に、神が定めた時と期限を見分けながら、与えられた時に従う生き方であり、究極的には永遠の御国を見つめながら今日を生きる信徒の姿勢だとまとめることができる。
張ダビデ牧師は、このような教えに基づいて常に「有終の美」という表現を使う。時間の終わり、あるいは年末が近づいたとき、私たちがなすべきことをきちんとやり遂げるなら、満ちあふれる喜びが生まれるというのだ。人間はいずれ死を迎えるが、その死の前に「神様の使命を果たし尽くしたから、あとは天国へ行くだけだ」という心で生きるとき、人生そのものがもはやむなしくは見えなくなる。むしろ「天の下のすべての事には定まった時期がある」(伝道の書3:1)という御言葉の中に、神が設計された目的と計画があることを確信できるのだ。
張ダビデ牧師が一貫して強調するのは、伝道の書が喚起する人生の限界と死という厳粛なテーマの上に立ってこそ、人間は初めて真の人生の目的を悟り、永遠と救いの道へと踏み出せるということである。そしてこの道から外れないよう助け合うのが教会共同体であり、互いに重荷を負い合い、霊的遺産と歴史を伝えながら次世代を育んでいくのである。したがって、伝道の書が語る「むなしさ」は決して「無意味」で終わるわけではない。「人間のすべては無に帰するのか?」という問いは、「だからこそ永遠の神をつかんで生きるべきなのだ」という答えへ導かれ、それこそが伝道者の目的だと張ダビデ牧師は常々力説してきた。
以上が「人間の有限性と虚無への洞察」を中心にした伝道の書の神学的意味と、その悟りの上で実践される「所有の克服、永遠への志向、大宣教命令の遂行」--これらは、張ダビデ牧師が伝道の書全体を説教・講解する際、終始強調している核心内容と言ってよい。その結果、伝道の書のメッセージは悲観的で厭世的な結論ではなく、むしろ永遠のいのちと天国を慕い求めつつ今日を喜んで生きるというチャレンジへと結実する。そしてこれこそ、伝道者の言葉が現代のクリスチャンに力強く響き続ける理由なのだと張ダビデ牧師は主張する。彼の教えによれば、伝道の書の語る「むなしさ」とは終わりではなく始まりであり、その始まりは私たちを救いへと導く神へ向かって開かれている。「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」(伝道の書12:1)という御言葉は、結局すべての人に対する力強い招きなのである。その御言葉の前で、人は世俗的欲望や所有のむなしさを置き去りにし、永遠を与えてくださる神の中で新しく生まれ変わる道を見いだせる。これこそが張ダビデ牧師が強調してきた「伝道の書の信仰的価値」であり、彼が一貫して広めてきたメッセージの真髄だと言える。
















