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張ダビデ牧師 - 豊かな実り

1. の時代と新たな結

張ダビデ牧師はヨハネの福音書15章8節「あなたがたが多く実を結ぶなら、それによってわたしの父は栄光を受け、あなたがたはわたしの弟子となるであろう」という尊い御言葉を中心に、「実を結ぶ生」と「新たな7年の始まり」という重要な信仰的ターニングポイントを宣言された。特にこれは、前章であるヨハネ14章において主が「聖霊の時代が来る。その聖霊はあなたがたにすべての真理を教え、悟らせるであろう」とおっしゃった御言葉と自然につながっていると述べられた。聖霊はすなわち「助け主(パラクレートス)」であり、イエス・キリストの愛と真理をわたしたちの心に思い起こさせ、「キリストにあって」生きるよう助けてくださる方である。張ダビデ牧師は、この聖霊の働きが教会と信者個人に具体的にどのように実を結ばせるのか、そしてその実がどのように父なる神に栄光をお返ししつつ、同時に信者をイエス・キリストの真の弟子とするのかを集中的に説き明かされた。

まず張ダビデ牧師は、旧約時代と新約時代を経て現在の教会時代に至るまで、救いの歴史(救済史)がいかに進行してきたかを簡潔に振り返られた。旧約時代は父なる神が「みことば」と「御使いたち」を通じて歴史を導かれ、続いてイエス・キリストが直接この地上に来られ、真理を教え、十字架の死と復活をもって救いの「大いなる絵図」を完成された。そしてイエス様が昇天された後には、「わたしが去れば、父は助け主なる聖霊をあなたがたに送ってくださるだろう」と約束された。その聖霊こそが教会を教え導き、みことばを悟らせ、聖徒の生活を清める方だということである。だからこそ張ダビデ牧師は、新年が始まり、さらに新たな7年の周期が開かれるこのタイミングこそ、わたしたちすべてが「聖霊の臨在」をより深く求めるべき時だと強調された。

張ダビデ牧師は、ヨハネ14章に登場する「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです(ヨハネ14:6)」というイエス様の宣言が、実は15章において「わたしはまことのぶどうの木であり、あなたがたはその枝である(ヨハネ15:5)」と続く流れの中で、さらに具体化されると解説された。「道」であり「真理」であり「いのち」であられるキリストのうちにとどまることによって、わたしたちはいのちの力と真理の力を受け取る。しかしそこで終わるのではなく、枝がぶどうの木につながって豊かな実を結んでこそ、真の弟子として父なる神に栄光をお返しする存在となる。それがヨハネ15章全体が語る主の切なるメッセージである。そして、その実を結ぶプロセスにおいてわたしたちに必要なのが、まさに助け主なる聖霊である。聖霊はわたしたちの生を教え、恵みを呼び覚まし、イエス・キリストの愛を絶えず想起させてくださる。今日の教会が本当に聖霊のうちにみことばによって目覚めているとき、教会は良い地に落ちた種のように30倍、60倍、100倍の結実を得ることができるのだと力強く語られた。

付け加えて、張ダビデ牧師は「あなたがたが多く実を結ぶなら、それによってわたしの父は栄光を受け、あなたがたはわたしの弟子となる(ヨハネ15:8)」という宣言を逆に読み解けば、主の真の弟子とされた者たちは結局豊かな実を結ぶようになるという驚くべき原理を発見できると説明された。この「実を結ぶ」とは、単に外面的な「教会の成長」や「財政的な豊かさ」だけを指すのではなく、信仰者の品性や生活全般に現れる聖なる姿、犠牲、仕える精神など、多様で深い聖霊の実を意味している。1タラントを土に埋めた者が叱責を受け、種蒔きのたとえで良い地に落ちた種が豊かに結実するように、聖徒の生は聖霊のうちに清められ、神のみことばを握って生きるとき、ますます充実した実りへと熟していく。その結果、教会は世の中で光と塩となり、貧しく孤立した人々を実際に世話し、分かち合い、ともに泣き、笑う「キリストの愛」を体現することで、その実をはっきりと示すことになる。

では、わたしたちはどうすればこうした実を結ぶ信仰へと進むことができるのだろうか。張ダビデ牧師は「旧約イザヤ書5章の野ぶどうのたとえ」と「ヨハネの福音書15章のまことのぶどうの木のたとえ」を合わせて読むとよいと勧められた。イザヤ5章で神様は、良い地を耕し、肥料を施し、丹念にぶどう畑を作ったのに、期待していた良いぶどうではなく、野ぶどうが実ってしまったと嘆いておられる。野ぶどうは実が小さく種ばかり多く、食べる部分が乏しい、いわば役に立たない産物である。こうしたように、神様が「種そのもの」を変えてくださらない限り、人間は野生のぶどうの木のように、本来の罪性(罪の性質)のせいで、けっして善く聖い実を結ぶことはできない。だからこそ新約に至って、わたしたちには「新しい芽」を接ぎ木してくださるイエス・キリストの救いが提示される。ガラテヤ2章20節の「わたしはキリストとともに十字架につけられた。もはや生きているのはわたしではなく、キリストがわたしのうちに生きておられる」という宣言のように、わたしたちはキリストと連合してはじめて新しい実を結ぶことができる。つまり種が変えられなければならないということである。

しかしここで張ダビデ牧師が重要だと強調されたのは、単に「種の改良」という言葉を繰り返すだけで終わるのではなく、実際にキリストの十字架の死と復活にわたしたちが結びつくことで、その死がわたしの死となり、その復活がわたしの復活となる「連合のリアリティ」を信仰によって受け入れることだという点である。この信仰は、聖書のいたるところで「In Christ(キリストにあって)」と宣言される核心的な真理である。キリストの生と死、再び生きられたこと、昇天などとわたしたちが霊的に一体化すること、これこそが「聖霊の時代」に聖霊が信者のうちに成し遂げる救いのリアリティだ。

また、張ダビデ牧師はコリントの信徒への手紙第二5章17節「だれでもキリストのうちにあるならば、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」という御言葉を引用しながら、この言葉自体がパウロの終末論的宣言であることを強調された。キリストにあってわたしたちは日々新たにされ、古い人の罪の性質や過去の束縛から解放されるということである。しかし解放されたからといって、好き勝手に生きてよいという意味では決してない。むしろ「わたしが聖なるように、あなたがたも聖でありなさい」という神の命令のとおり、この地上で罪を断ち、自らを清める訓練(discipline)を続けなければならない。新しい被造物とは、単なる宣言の次元だけでなく、聖霊とともに歩みながら聖さを実践する人を指すのである。

張ダビデ牧師は「神の招きには悔いがない(ローマ11:29)」という御言葉と、「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選んで立てたのだ(ヨハネ15:16)」というくだりを引用しながら、わたしたちへの神の選びと召しには永遠の経綸があると示された。わたしたちが神を選んだのではなく、主が先にわたしたちをご存じで、予知し、予定してくださった。そして「実を結ばせるため」にその選びの目的があるというのだ。「あなたがたが身を結び、その身が残るようにと、わたしがあなたがたを選び、立てたのだ。それは、わたしの名によって父に求めるものは何でも、あなたがたにお与えになるためである」という御言葉がその証拠である。ゆえに選ばれた聖徒は、漠然と停滞しているように招かれたのではない。生き方をもって神に栄光をお返しする「具体的な結実を生む使命」のために選ばれたのだ。そして聖霊はまさにこの使命を成就するようにわたしたちを助け、教えてくださる方である。

新たな7年の始まりに関して、張ダビデ牧師はイスラエルの民が荒野での40年を終えてカナンの地に入り、ついに農業をして豊かな穀物を収穫した出来事を例に挙げられた。荒野ではマナを食べ、常に遊牧の生活をしていたので、特別な実りを期待しにくかった。しかし神の約束の地に入ると、彼らは種を蒔き、手をかけて育て、実際に穀物や実を収穫する「実質的な豊かさ」を体験する。そしてその収穫物を食べ始めたとき、天から降っていたマナは止んだ。これはすなわち、一つの時代が終わり、新しい時代が開かれたことを象徴している。こうして教会も一定期間、荒野を歩むような訓練の時があるなら、今は結実の時、豊かさの時へと招かれているのだと語られた。張ダビデ牧師は、まさに今迎えているこの時こそが、その結実の時であると信じ、準備しようと呼びかけられた。

ただし、結実の時においてさらに重要なのが「検証」であると語られた。芽が出て穂が伸びる過程で、本物の穀物か毒麦かが識別され始める。教会が本質を外れて世俗化の道を進んだり、神学的・倫理的な検証なしに興味本位で運営されるなら、かえって毒麦のように育ってしまい、結実ではなく混乱をもたらす可能性がある。だからこそ、「Faith & Order(信仰と秩序)」の基本がしっかりしてこそ、教会も豊かに成長し得るのである。教理と倫理、礼拝と奉仕の基礎がきちんと据わっていなければならない。張ダビデ牧師は、こうした秩序がしっかり整えられた教会であれば、芽-穂-豊かな結実へと至るプロセスに耐え抜き、終末論的視点において神が望まれる新しい国の共同体として屹立すると説明された。

そして再びヨハネ15章に戻り、イエス様が「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」とおっしゃった点に注目された。「まことのぶどうの木」であるキリストと「枝」であるわたしたちの間にはきわめて親密で緊密な連合がある。聖書はこれを「キリストは教会のかしらで、わたしたちはそのからだの肢体である」と表現したり、ぶどうの木と枝という農業の比喩で説明したりしている。これほど切り離せない、いのちの供給が直接行われる関係なのだ。そしてさらに、「わたしにつながっていながら実を結ばない枝はみな、父が取り除かれ、実を結ぶ者はさらに多くの実を結ぶように手入れされる(ヨハネ15:2)」という御言葉は、信者一人ひとりが「清さ」、すなわち聖なる状態を保つ必要性を示唆している。剪定の目的はさらに多くの実を結ばせるためであって、むやみに枝を切って苦痛を与えるためではない。張ダビデ牧師は、この剪定を「聖潔の訓練」と呼び、神の前で罪を悔い改め、世俗的な欲望を断ち切る具体的プロセスを解き明かされた。

人は豊かになり楽になる時期にこそ、罪と誘惑の機会が増える。世の快楽と誘惑が目や耳、そして心に入り込み、魂が汚される危険が高まる。張ダビデ牧師は「荒野の時期には不足が多かったので神だけを仰ぎ見ていたが、豊かな時代になると高慢になり得る」ことを思い出さなければならないと警告された。申命記8章にも「良い地に住み、豊かに暮らした後に神を忘れないように」とあるが、まさにそれがわたしたちの心の実態を突く真理なのだ。だからこそ今こそ信仰が一層必要であり、自分を否定して十字架を負うという献身が求められる。なぜなら聖さとは、聖霊によって毎日新たにされ、罪を断ち切るプロセスの繰り返しだからである。

張ダビデ牧師は具体的に「もし右の目が罪を犯させるならばえぐり出し、右の手が罪を犯させるならば切り捨てなさい」というイエス様の過激な表現に言及された。「罪が入ってくる通路を遮断しなさい」ということだ。もちろん本当に目をえぐり、手を切るという意味ではなく、それほど罪の通路を徹底的に警戒せよという絶対的な警告である。なぜなら視覚から入ってきた罪は行動へと移りやすく、その行動がさらなる罪を呼び、それによって最終的に心と霊全体が濁流のように汚されてしまうからだ。現代は世の刺激や誘惑があまりにも多く、インターネットやメディアを通じて際限なくあふれてくる。だからこそ訓練が必要なのだと、牧師はある宣教団体の例を挙げながら、その団体では新年が始まるたびに指導者たちが3日間の断食を行い、その間に世俗的欲望が断ち切られる具体的な体験を多くするということを紹介された。それほど徹底した隔離、みずから断つ訓練がわたしたちの魂に必要だと強調されたのである。

このように自分を清くする訓練が前提となったとき、ついに聖霊の実りが豊かに結ばれる。ガラテヤ5章22〜23節にあるように、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善良、誠実、柔和、自制」が聖霊の実であり、これら内面的な実は自然とわたしたちの生活に現れてくる。そして教会は世の中に善い影響を及ぼすようになる。張ダビデ牧師は、これは決して容易な道のりではないが、すでにイエス・キリストが十字架によって道を開いてくださり、聖霊がわたしたちのうちに住んで日々新たにしてくださるゆえに可能なのだと力説された。

張ダビデ牧師は、昨年与えられた御言葉を振り返りながら、ノアがゴフェルの木で箱舟を作るとき、その内部を部屋で区切り、内と外にピッチを塗って水が浸入しないようにした過程が大切だと強調された。その作業が完了した後は、箱舟を「満たす」ことが残っている。また、「カナの婚礼」で壺に水を満たしたとき、イエス様がその水をぶどう酒に変えられたように、わたしたちも心と手と足を神様のことで熱心に満たすならば、主がそれを新たに変えてくださると期待しようと語られた。教会が世に対するビジョンや、貧しく孤立した人々を助けようとする具体的な働きのビジョンを抱いているなら、それを実際に満たしていき、実行に移すためには「聖潔」と「みことば」「祈り」の装備がなされていなければならないということである。

特に教会が多国籍に宣教を拡大し、教育や奉仕、分かち合いを幅広く展開しようとする時期であればあるほど、自分たちを清く保つことが欠かせないとする警告が続いた。豊かさと繁栄の機会をお与えになるのは神様だが、その中で「カナンの偶像礼拝」に陥らないよう覚醒していなければならないからだ。張ダビデ牧師は多くの例を挙げつつ、教会が裕福になっても本質を守らないなら、結局は高慢で自己中心的な構造になってしまうと付け加えられた。物質を得て財政を拡大し、建築を進め、宣教地を開拓することは確かに喜ばしく感謝なことだが、そのすべての目的が神に栄光をお返しし、人々に仕えることにあるという事実がぼやけないよう、日々自分を打ち叩いて従わせる必要がある。これこそが「わたしが聖だから、あなたがたも聖でありなさい」という御言葉に従う教会の姿だというわけだ。

結局、この文脈の中で張ダビデ牧師は、新しい7年のスタートラインに立つわたしたちが持つべき心構えを二つにまとめられた。一つ目は、聖霊を慕い求め、聖霊のうちでみことばが生活に浸透するよう力を尽くすこと。二つ目は、「In Christ(キリストにあって)」というリアリティを経験するために、罪を徹底的に悔い改め、以前の束縛や傷、暗い習慣を日々十字架につける聖なる決断を下すことである。この決断がなければ、人は過去の傷や罪悪感、あるいは昔の生き方に引きずり回されてしまう。福音とは「主とともに死に、主とともに生きる」ことである以上、過去が毎日甦ってわたしたちを苦しめるなら、まだ死に切れていない部分があるということだ。牧師は「わたしはキリストとともに十字架につけられた」というガラテヤ2章20節の告白を実際に適用するよう勧められた。

わたしたちは今まさに「あなたがたが多く実を結ぶなら、それによってわたしの父は栄光を受け、あなたがたはわたしの弟子となるであろう(ヨハネ15:8)」という御言葉の前に立っている。張ダビデ牧師は、教会がこれから歩むべき道を具体的に挙げながら、各種の宣教や教育、海外奉仕など無限の働きが可能だとおっしゃった。新しい学生を育て、牧師を立て、教師を養成し、熱心に経済的な力を伸ばして困っている人々を助けるための財源を備えることも、信者が担うべき大切な使命である。そしてこれらすべては究極的に「キリストの愛を伝え、この地上に福音を宣べ伝え、神の国の価値を実現する」という大いなるビジョンの中で捉えられなければならない。

他方で張ダビデ牧師は、世にはさまざまな霊的・宗教的主張があることにも言及された。例えば「天と地が歪んでいるので天地工事をし直さねばならない」とか、「呪文を唱えれば疫病が終わり、新しい時代が開かれる」などの説は、その根本が「イエス・キリストの真理と福音」とはまったく異なる土台の上にあると指摘された。一見もっともらしく見えても、結局のところ真理とはイエス様ご自身が命を捧げてこの地に示された愛から出ているのではないか。真理の宣言と真理そのものが分離されず一つになっているのが福音の力強さであり、その真理は人格であり、かつ出来事でもある。「言(ことば)は肉となってわたしたちの間に宿られた(ヨハネ1:14)」という宣言がその証拠だ。張ダビデ牧師は、福音こそがわたしたちの霊魂に真のいのちを与える源泉であり、罪の問題を根本的に解決する答えだと再三強調された。

では結実の秘訣とは何か。それは単に世の原理に従う「努力」ではなく、「もしあなたがたがわたしのうちにおり、わたしのことばがあなたがたのうちにあるならば、何でも望むものを求めるがよい。そうすればそれはかなえられる(ヨハネ15:7)」というイエス様の約束に基づく信仰的実践にある。張ダビデ牧師はこれを電源コードをコンセントに差し込まなければ電気が流れないことにたとえられた。イエス様というぶどうの木につながって初めて、枝であるわたしたちがいのちの樹液を受け取り、実を結ぶことができる。要は信仰生活の核心は「この連合の関係をどう深く味わって生きるか」にかかっているのだ。

さらに張ダビデ牧師は、わたしたちの罪の性質を完全に制することができる力は「聖霊の満たし」しかないと、多くの例話で示された。聖霊が来られると、闇が光に勝てないように罪は退けられ、心が清められる。だからこそ礼拝とみことば、祈りの集会、共同体の交わりの中で聖霊の働きが活発に起こるとき、教会や信徒は世の罪や誘惑から離れて聖さを保つことができる。これは単に道徳的な規範に従うとか決心するだけでは不可能だ。もちろん信仰の初心者には「これこれをしてはいけない」という規則が一時的に必要な場合もあるが、究極的には聖霊がわたしのうちに満ちてこそ、罪の本性に真に勝利する生を歩むことができる。

年が始まって多くの信徒たちが「新しさ」や「希望」を語るが、この時点で浮ついた楽観ばかりが先走り、自分の霊的状態を振り返ることをおろそかにしがちだと張ダビデ牧師は指摘された。新しい始まりは喜ばしいが、同時に「自分のうちに死んでいない古い人がいるか」を点検し、その部分を徹底的に十字架につける過程が必須だというのである。パウロが「わたしは日々死んでいる(コリント第一15:31)」と告白した理由もここにある。日々自分を点検しなければ、古い人が巧みに復活してわたしたちの生を支配してしまう。「新しいものを身にまとう」ことは「古いものを完全に脱ぎ捨てる」ことと表裏一体であることを絶えず覚えていなければならない。

張ダビデ牧師はそうした観点から、教会の中にも「過去の内面の傷を癒やすためにひたすら過去を掘り返すアプローチ」ばかりを繰り返す手法に警戒を示された。実際のところ、福音的癒やしとは、過去を全部さらけ出して分析するというよりは、「すでにわたしは死んだ存在であり、わたしのすべての罪と傷は十字架でともに釘付けにされた」という事実を信仰によって宣言することから始まるというのだ。もちろん現実の問題には直面し続けなければならないが、霊的にはイエス・キリストにあって「過去が解体された存在」であると認めることが肝要である。そのとき初めて完全な自由と真の新しさが訪れる。

「あなたがたが多く実を結ぶなら、それによってわたしの父は栄光を受け、あなたがたはわたしの弟子となる」というイエス様の約束は、これまで荒野のような歩みをしてきた人々に「現実の結実」を見ることになるという希望を与える。教会は建物やプログラムの拡張ではなく、信徒一人ひとりが聖霊によってまことのぶどうの木であるイエスに一層しっかりとつながることによって、豊かな実を結ぶ共同体とならなければならない。そしてその結実は、究極的には父なる神への栄光となり、同時に世に対する福音宣教の力強い証となる。

今はイスラエルの民が荒野での訓練を終えてカナンに定着し、穀物を収穫したように、わたしたちも豊かな収穫を期待してよい時期である。しかし忘れてはならないことがある。神が備えてくださる豊かさは同時に試みの時期でもあるということだ。「あなたがたが飽き足りて良い家を建てて住むようになるとき、高慢になって、あなたの神、主を忘れはしないか(申命記8:12〜14参照)」という警告は、わたしたちにも当てはまる。張ダビデ牧師はまさにこの箇所で「豊かさそのものが罪なのではない。だが豊かさの中で高慢になり、自分の力を過信し、本質を見失うことが問題だ」と指摘する。だからこそわたしたちに必要なのは「十字架に常に立ち返り、自分を降ろす練習」である。イエス様が最も低いところ、飼い葉桶に来られたように、わたしたちも仕えの場に立ち、弱い者の友となり、その人々を顧みることを通じて、より深い霊的な豊かさを味わう道へと進むべきだと説かれた。

より低い道を行くことでこそ、より高い次元へ上げられるというのが福音の逆説である。パウロがピリピ2章で「キリストはご自分を無にして、しもべの姿をとり、死に至るまで従順であられた」と語るように、張ダビデ牧師も「わたしたちもまず低くなるときにこそ、『主とともに高められる』という恵みを体験できるのだ」と強調された。世は効率と競争の原理を第一にするが、福音は愛と犠牲、仕えることで栄光に至る道を示している。ゆえに教会が豊かになり規模が大きくなっても、その本質は「低くなることで世に仕えること」である点に変わりはない。

このように張ダビデ牧師は「聖霊の時代が開かれ、その時代にあってわたしたちはキリストとの連合によって豊かな実を結ぶ」というテーマを第一に強調され、ヨハネ14章と15章、イザヤ5章、ガラテヤ2章20節、コリント第二5章17節、そして申命記8章の主要な節を引用された。これらはいずれも「新しい時代にわたしたちはどのようなアイデンティティと目標をもって生きるべきか」という問いに対する聖書的洞察である。そしてすべての過程は「聖霊なしには不可能」であり、「わたしたちのうちに残る罪の種を徹底的に取り除かなければならない」というのが、この小主題での大切な要約といえる。

 


2. まことのぶどうの木であるキリストと豊かな

 

張ダビデ牧師はヨハネ15章8節の御言葉、「あなたがたが多く実を結ぶなら、それによってわたしの父は栄光を受け、あなたがたはわたしの弟子となるであろう」を改めて強調し、わたしたち一人ひとりが豊かな結実の生を歩むよう勧められた。特にこの説教で核心的に取り上げられた「わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝(ヨハネ15:5)」というイエス様の御言葉は、信者がいかにして実を結ぶ存在となるのかについて、具体的な答えを示している。

第一に、「まことのぶどうの木」であるイエス・キリストと「枝」であるわたしたちの関係は、運命的に結ばれなければならないということ。枝が自分の力で実をつけられないように、人間は自力では聖なる生を生き抜くことができない。唯一、聖霊によってイエス・キリストにつながるときに、その方からいのちの樹液を受け取って実を結ぶ。これは聖書全体に流れる「連合(ユニオン)」の思想、すなわちIn Christ(キリストにあって)の教えでもある。福音書もパウロ書簡も一貫して「わたしたちはキリストにあって新しい被造物となった」と強調するのは、この連合なくしては「野ぶどう」のような生から抜け出せないからだ。

張ダビデ牧師は、この連合を妨げる最大の問題として「罪と世俗性」を挙げられた。罪の本性は常にわたしたちを過去へ、世へ、古い姿へと引き戻そうとする。世のあらゆる誘惑が目や耳、手足、そして心を通じて入り込む。これこそイエス様が「もし右の目が罪を犯させるならばえぐり出し、右の手が罪を犯させるならば切り捨てなさい」という急進的な表現を用いられた理由だと解説された。実際、信仰者の生において最も顕著な危機は、外からの大きな迫害や困難よりも、内側から静かに浸透してくる罪と誘惑の場合が多い。だからこそ徹底した「自己否定」と「悔い改め」の霊性が日々必要となり、聖霊の助けを求めなければ、わたしたちは真の結実の道へ行くことができない。

第二に、「わたしの父は農夫である(ヨハネ15:1)」という御言葉に示されているように、神がわたしたちを耕し育ててくださる方であるという事実だ。張ダビデ牧師はここに希望を見いだそうとおっしゃった。農夫なる神は、わたしたちが実を結べないまま放置されることを望んでおられない。ときに枝を剪定する痛みを伴う過程があっても、その目的は「もっと多く実を結ぶように」わたしたちを清めること(ヨハネ15:2)なのである。わたしたちが結実できるかどうかを心配し、必要に応じてわたしたちの人生に介入し、不要な枝を刈り取ってくださる。その神が農夫であることを全面的に認めないで、自分自身が農夫になろうとするところに問題が生じる。自分の力で人生を切り開き、自分の計画で問題を解決しようとするあまり、多くの欲と浪費を生む。しかし張ダビデ牧師は「真の聖徒の生とは、神が農夫であることを認め、その方に従うことだ」と強調された。

第三に、「実」が必ず必要だという点である。張ダビデ牧師は、わたしたちの信仰が単なる「言葉」や「教理」レベルにとどまらず、実際の生活における「実」によって証明されるべきだと説明された。その実は多様な形で現れる。ガラテヤ5章にある聖霊の9つの実、あるいはマタイ25章に示される仕えの実、ヨハネの手紙第一で「兄弟を愛する者がまことに神を愛している者である」と語られる愛の実など、聖徒のうちにさまざまに実る。さらに具体的には、教会共同体の中で牧師と信徒が互いに仕え合う雰囲気、各人の言葉や態度ににじみ出る「柔和」と「忍耐」、あるいは実際に貧しい隣人や社会的弱者を世話する「奉仕と分かち合い」など、これらすべてが「聖霊の実」の一面なのである。

張ダビデ牧師は「行いのない信仰は死んだ信仰である(ヤコブ2:17)」というヤコブ書の教えを引用し、教会の目的は真に実を結ぶことだと再度強調された。そしてその実は必ず神の栄光を目指すものでなければならない。「実を多く結べば、わたしの父は栄光をお受けになる」というくだりが示すように、すべての栄光は最終的に神に帰されなければならない。人間の自慢や世の評価にこだわった瞬間、ぶどうの木に連結された枝ではなく、独立した野ぶどうと変わらない状態に陥る可能性がある。だからこそ日々「これは本当に神の栄光につながるのか」を問い、仲間と相談しながら、みことばの中で識別していく必要がある。

さらに張ダビデ牧師は、わたしたちの時代が社会的にも文化的にも急速に変化しているが、教会は昔からの福音の真理を揺るぎなく握りつつ、新しい環境に合った伝道や奉仕の方法を模索すべきだと述べられた。その際に重要なのが「聖霊の教え」である。人間のやり方や世のマネジメントの原則には限界があるが、聖霊は教会が進むべき道を具体的に知恵をもって示してくださる。イエス様が去られる前に「聖霊が来て、あなたがたにすべてを教え、わたしが言ったことをことごとく思い起こさせる(ヨハネ14:26)」とおっしゃったように、聖霊の時代を生きる教会は「祈り」と「みことば」に集中することによって、常に新たな道を見出すことができる。

結実の時が来るということは、一方で大いなる喜びであるが、他方では大きな責任も伴う。というのも、収穫した後、それをどのように使うのかが非常に重要だからである。張ダビデ牧師は、教会に財政的な余裕が生まれ、人材が増え、建物が拡張し、多くの働きが行われるようになったとき、より低いところを見つめず自己満足や名誉ばかりを追い求める落とし穴に陥りやすいと指摘された。イスラエルの歴史においても、ダビデとソロモンの時代に物質的繁栄を謳歌したものの、その後、高慢になり偶像礼拝に巻き込まれて滅亡への道を辿る傾向があったように、多くの実を結び繁栄するからといって、それが必ず神に栄光をお返しする生き方につながるわけではない。実をどう用い、神が望まれるところに喜んで差し出すかという点こそ、聖徒にとって最も重要で本質的な問いとなる。

わたしたちは第一に「聖潔」を保ち、第二に「聖霊の満たし」を求め、第三に「まことのぶどうの木であるイエス様との深いつながり」を追い求めねばならない。さらに現実の生活の中で「隣人に仕え、伝道し、愛を実行することで実が明らかになる」という真理を絶対に忘れてはならないと、牧師は念を押して語られた。

また張ダビデ牧師は、このすべてのプロセスを通じて、わたしたち自身がいっそう成熟し、教会が世の中に善い影響を及ぼすようになるだろうと展望された。印象的なのは「わたしたちは一世代を生きてきたが、それはわたしたちの力や知恵によって成し遂げられたのではなく、御霊によって、聖霊によって、神の御霊によってなされたのだ」という言及である。これまでの働きのすべては人間的な方法ではなく、まったく神の恵みと導きのおかげだったと告白されている。まさにその神がこれからも道を開いてくださるゆえに、今年から多くの結実が急に増えていくことを期待しようと励ましを与えられた。その文脈で、荒野生活からカナン生活へ移ったイスラエルが「マナ」の代わりに「大地の産物」を食べるようになった出来事を改めて取り上げられた。過去には経験できなかった「農耕」という領域、「結実」という領域に本格的に足を踏み入れたのだという。

しかしその実りを存分に味わうためには「聖さ」が不可欠である。「ぶどうの木を清める」という御言葉が示すように、すなわち「剪定」と「不純物の除去」が聖徒の生活にも欠かせないと、張ダビデ牧師は非常に強く訴えられた。イエス様を信じて罪の赦しを得たなら、さらに踏み込んで聖霊とともに歩み、残っている悪習や罪の欲、古い性質を断ち切らなければならない。その作業をおろそかにすると、教会が大きくなっても内面が野生のぶどうのように変質してしまう危険がある。

さらに張ダビデ牧師は「新しい被造物(コリント第二5:17)」というアイデンティティにふさわしく、過去に縛られずに、日々新しい朝を迎えるような気持ちで生きるべきだと強調された。もしわたしたちがイエス様のうちに「死んで生き返った存在」なのであれば、過去の失敗や罪、傷がもはやわたしたちを支配する理由はない。問題は、それを信仰によって受け止め切れず、慣習的にまた過去に戻ってしまうところにある。だからこそパウロが「わたしは日々死ぬ」と告白したように、日々十字架の前に立って「今日も古い人を十字架に釘付けにする」という決断が必要になる。この決断の繰り返しを通じてこそ、罪に打ち勝ち、聖潔を保ち、聖霊とともに歩む習慣が身についてくる。そうしてはじめてヨハネ15章の「豊かに実を結ぶ生」が現実となる。

張ダビデ牧師は説教の締めくくりに「結実の時代、豊穣の時代が来る。しかしその時代に自分を低くし、聖潔を守る者だけがその豊かさを真に享受できる」と警告を込めて勧めを述べられた。教会がうまくいき、名が知られるようになり、財政が大きくなり、信徒数が増えるようなときほど、人間的な虚栄心と世の価値観が教会に流入する危険が非常に高い。しかし本当の意味で教会が「実を結ぶ共同体」となるためには、常に「わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である」とおっしゃる主の御言葉を心に刻み、イエス・キリストだけに目を留めなければならない。信徒の魂も教会共同体のアイデンティティも、結局はキリストのうちでのみ維持され、そこで結ばれる実こそが神に栄光を帰し、この世にとっての福音の喜ばしい知らせとなる。

ヨハネ15章8節は、単に一年の標語として取り上げる短いフレーズにとどまらず、イエス・キリストのうちに生きるすべての信徒の「存在意義」を定義する核心的な御言葉である。「あなたがたが多く実を結ぶなら、それによってわたしの父は栄光を受け、あなたがたはわたしの弟子となるであろう」というこの宣言はすなわち、「弟子は必ず実を結び、その実は神に栄光をもたらす」という真理を同時に告げている。張ダビデ牧師はまさにこの真理を握り締め、日常の中で聖霊の教えを求め、罪を捨てて聖潔を追い求め、具体的な愛と奉仕を実践する教会になるよう切に望まれた。

わたしたちは皆「聖霊の時代」という特別な恵みを受けた時代を生きている。もしイエス様が去られなかったら、聖霊はわたしたちに下らず、この驚くべき結実への飛躍も起こらなかったはずだと、張ダビデ牧師は改めて教会がこの事実を忘れないようにと訴えられた。また「長く教会に通っているから、自然と実を結ぶだろう」というような安易な考えも捨てようと促された。神は今も「野ぶどう」のような実に対しては裁きを宣言され、良いぶどうを期待しておられる。だからこそわたしたち一人ひとり、そして教会全体は「農夫」である神の前に自分たちをゆだねなければならない。そして「まことのぶどうの木」であるイエス・キリストがいてくださり、助け主なる聖霊がわたしたちを清め導いてくださるという事実を、決して忘れてはならない。これほど徹底した依存と従順の中でこそ、わたしたちはついに豊かな実を結び、神に栄光をお返しする人生へと進むことができる。

わたしたちはこれまで神によって導かれてきたし、これからも同じく、いやさらに不思議な方法で道が開かれていくことを信じて疑わない。ここまでのすべての恵みを振り返るとき、人間の力や知恵によることは一つもなく、ただ御霊によって、聖霊によって、神の導きによって成し遂げられてきたことを覚える。だからこそわたしたちはこれからも思い切り夢を描き、その夢を実現する過程で罪と世俗に染まらぬよう、日々十字架に戻り、聖霊の助けを受けて清さと謙遜さを保たなければならない。そのような者たちにとって、結実の喜びはさらに大きく与えられるであろう。それこそが「あなたがたが多く実を結ぶなら、それによってわたしの父は栄光を受け、あなたがたはわたしの弟子となるであろう」というイエス様の御言葉に従う道であり、神がわたしたちに与えられた永遠の召しにふさわしい応答なのである。

張ダビデ牧師が繰り返し強調する核心は大きく二つに要約できる。第一に、聖霊の時代が開けていることを自覚し、イエス・キリストとの連合を通じて過去と罪の性質を断ち切る聖潔を追い求めなさいということ。第二に、その聖潔を土台として、実際に豊かな実を結んで神に栄光をお返ししなさいということである。そしてその実が「真の弟子である証」となる。それこそが彼の今年最初の説教全体に流れる主要メッセージであり、また今後の7年、さらにわたしたちの一生を通して握るべき霊的指針だというのだ。この御言葉を受け取るすべての人が、主の約束どおり「多くの実を結んで」神に喜びと栄光をお返しする生を歩むことを願いつつ、張ダビデ牧師の今回の説教整理を締めくくりたい。